しかし、実のところ、この出兵は謙信にとって、まるで利がないわけではなかった。実は当時、神保氏は、謙信の宿敵である武田信玄と同盟関係にあった。
言わば、越中における神保と椎名の抗争は、信玄と謙信の代理戦争であり、武田方の神保を排除し、本国・越後の隣国である越中を平らかにすることは、信玄との対決を有利に進めるうえで、謙信にとって重要な意味があった。
3月、初めて越中に兵を入れた謙信は、神保方を一蹴。神保長職は、本拠の富山城を捨てて増山城へと逃げ込むが、その増山城もすぐに攻略され、行方知れずとなった。謙信は戦果に満足し、越後へと帰国した。
ところが、神保長職は、謙信が越中を離れたとみるや、増山城へ舞い戻り、逆襲の兵を挙げる。一向一揆の助勢を受けた長職は、永禄5年(1562)9月の「神通川合戦」で椎名勢に大勝し、椎名領の奥深くまで侵攻した。
またも追い込まれた椎名康胤の救援要請により、謙信――この時期、関東管領(かんとうかんれい)上杉氏の名跡を継ぎ、さらに改名して上杉輝虎と称していた――は再び越中へ出兵。来襲した上杉勢の猛攻に、神保勢は瞬(またた)く間に破られ、増山城へと逃げ戻った。
「この世に、これほど恐ろしい大将がいたのか。これ以上、輝虎(謙信)を敵に回すは、己が首を絞めるも同じじゃ」
これまでの敗戦で、神保長職はそのように考えたのだろう。戦況の不利を悟った彼は、上杉の同盟者である能登畠山氏(河内畠山氏の分家)に仲介を求め、上杉方との和睦を成立させる。こうして、越中には平穏が訪れたかに見えたが、それは長くは続かなかった。
謙信の宿敵・武田信玄の策謀の手が、北陸に迫っていたのである。
謙信に叛く、越中の諸勢力
永禄11年(1568)3月、上杉家の傘下にあった、越後の有力国衆(領主)・本庄繁長が、突如として謙信に叛(そむ)き、武田方への加担を表明した。さらに同年7月、越中の椎名康胤までもが、武田方に寝返ってしまう。
長きにわたって上杉家と昵懇(じっこん)であった椎名氏が、なぜ、突如として裏切ったのか、確かなことはわからない。ただ、椎名康胤としては、仇敵たる神保氏を排除してくれると期待したからこそ、これまで上杉方に従ってきたのだろう。だというのに、謙信は神保長職とあっさり手を結び、神保氏の領地も従来通り認めた。
「これでは、話が違う! 先に我らの信頼を裏切ったのは、上杉の方だ!」
椎名康胤は、そのような思いを抱いたのかもしれない。
いずれにせよ恐るべきは、椎名方のわずかな隙を見逃さず、調略で取り込んでみせた、武田信玄の手腕であろう。