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 一方の神保長職は、椎名氏への対抗上もあってか、従来の同盟者であった武田氏や一向一揆とは距離を置き、上杉方の一員として戦うことになる。

 こうして、越中は再び、信玄・謙信の代理戦争状態に突入する。ただし、彼らの陣営は「武田方の椎名」「上杉方の神保」という、かつての旗色を、そっくり入れ替えた形であった。

 その後、謙信は神保氏救援のため、幾度か越中に出兵した。しかし、そうして謙信が領国を留守にすると、その隙を突いて信玄が攻めて来るため、長く越中に在陣するわけにもいかず、これまでのように、たやすく蹴散らすという具合にはいかなかった。

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 そして元亀2年(1571)頃、親上杉派であった神保長職の活動が史料上から消える(死去したと思われる)と、神保氏はなんと武田方に寝返ってしまう。

 かくして椎名、神保、そして一向一揆という越中の主要勢力は、ことごとく謙信に叛き、牙をむいたのだった。

信玄・謙信一騎打ちの像

その後の越中

 その後、神保を打ち払い、椎名を屈服させ、一向一揆と和睦し、天正4年(1576)、謙信はようやく越中を平定した(武田信玄は元亀4年(1573)に死去)。最初の出兵から、実に16年後のことであった。

 上杉謙信の活躍というと、武田氏や北条氏ら東国諸侯との戦いばかりが注目されがちである。しかし、越中をはじめとする北陸での戦いもまた、彼の生涯を語るうえで不可欠なものであり、また、その戦線が単なる局所戦ではなく、武田信玄らの諸勢力の動向と密接に関わっていたことは、いま少し知られるべきであろう。

イラスト:まいまい堂

 越中平定の2年後――天正6年(1578)、謙信は居城・春日山城で病没する。

 彼の死後、上杉家では、家督を巡って大規模な内紛(御館の乱)が勃発し、そのうえ、敵対する織田氏の侵攻が激化し、もはや越中の維持どころではなかった。

 結局、数年のうちに越中一国は、織田家臣・佐々成政の支配するところとなった(ただし、完全平定は信長死後の天正11年(1583))。

 しかしその佐々成政も、信長の死後、新たに台頭した羽柴(豊臣)秀吉に敗れ、降伏する。成政の旧領は、加賀の前田氏に与えられ、江戸時代以降も、越中は前田氏の領国として続いた。

INFORMATION

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