その後、継潤は城ごと織田方に寝返り、その証として浅井方の国友城を攻撃した。浅井家中の衝撃は、いかばかりであっただろう。
横山城から宮部城というラインを手に入れた信長は、元亀3年(1572)、その延長線上に虎御前山(とらごぜやま)城を築く。小谷城はすぐ目の前で、いつでも攻め掛かれる位置である。いよいよ追い詰められた浅井氏は、その後も抵抗を続けたものの、この翌年、ついに滅亡した。
ところで、継潤は、秀吉の甥の秀次を、一時的に養子にしていたことがある(後年、秀次が三好氏の養子になった際に解消)。この養子入りについて、一説には、継潤を寝返らせるために秀吉から持ち掛け、実質的な人質として秀次を預けたのではないかともいう(小和田哲男『豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇』)。
「日本無双」の荒法師
そののちも、継潤は秀吉の家臣として活躍を続けた。
秀吉が大規模な兵糧攻めを行った「鳥取城の戦い」では、支城の雁金山城を攻め落として敵方の補給路を分断し、九州征伐の際の「根白坂の戦い」では、敵の島津軍の猛攻を最前線で防ぎ切り、その働きぶりを秀吉から「日本無双」と讃えられた。
信長の死後、天下人となった秀吉によって、継潤は鳥取5万970石を領する大名となった。秀吉は、この古参の重臣の働きに、十分に報いてみせたといえる。
参考:黒田惟信編『東浅井郡志』第3巻 1927
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