恰好をつけてしまう戦国武者の性分が…
――前作『村上海賊の娘』からずいぶん時間がかかりましたが、本格的にこの物語を書きはじめるスイッチが入ったのはいつ頃だったのでしょうか。
和田:実は、2016年の末ぐらいに子供が生まれて、2年間、全部仕事をストップしたんです。2018年の末に「さあ仕事を再開しよう」という時に、世の中がなんだかガラッと変わったような……トランプが大統領になったり、欧州ではジョンソン首相によるEU離脱や極右の台頭など、これまであまり経験したことのない、どちらに転ぶか分からない時代になったと感じました。その感覚が今も続いている印象がありますが、そうなると、この悲劇的な結末を迎える史実が、なぜかすごく光って見えたんです。
――物語の終盤、五郎が自らが自身を死地へ、死地へと追いやっていくのは、読者としてはもどかしいほどですが、結果、彼が貫こうとしたものは何だったのでしょうか。
和田:これは、武士の矜持とか、そういう高尚なことではなく、単に戦国武者の“性分”なような気がします。戦国武者って、そういう格好つけなところがあって、子供っぽいんです。人の弱みに付け込むのがかっこ悪いとか、敵に謀られたとしても、それが見事な仕掛けだったら「ナイスプレイ」と言ってしまうようなところが、エピソード集なんかを読んでいるといっぱいあるんですよ。
だから五郎は死地に向かっていって、結局、みんなを巻き添えにして死んでしまう。それが悲劇だし、愚かだと言われれば愚かだし。でも、戦国時代ってそんな感じなんだ、ということです。それに対して批判する人間もいなければと思ったので、梶之助という脇役に「愚かだ」ということも言わせました。
逆に長岡藤孝らのように、家を長く続かせるためなら、卑怯な誅殺も辞さない非情な決断を下す人物もいます。藤孝はこれまで長岡家を一代で築き上げ、一心不乱に頑張ってきたにもかかわらず、それが本能寺の変で光秀によって台無しにされた。そこで自分が積み重ねてきたものをここで終わらせるわけにはいかない、と痛切に思った結果、丹後でずっと強大だった一色家に対しては、こうならざるを得なかったのでしょう。
――物語の最後、五郎の妻であり、忠興の妹である伊也の行動も衝撃的でした。
和田:あの愛にあふれた行動も、史料にあることなんです。それを読んだ時に、もう「これはラストシーンだ」と思いました。新聞連載ではあそこの場面が最終回で、パッと終わったんです。その後の後日談は、単行本にするにあたって書き足しましたが、あそこをラストシーンにしようというのは、史料を読んだ瞬間から心に決めていました。
とにかく、取材と執筆までの期間は長かったですけど、でも、終わってみると、なんだか寂しい……何年もずっと家で史料を読んでいたので。その間に子供も幼稚園から小学校に上がるみたいな時を経て、本当に長かったなと思います。でも、これで登場人物のことを考えなくなっちゃうと思うと、やっぱり寂しいんですね。
次の作品がまた12年後ということには、さすがにないとは思いますけど(笑)、次作の準備は全然していません。今はまずこの本を読者の皆さんに読んでもらうべく、色々宣伝をして。本当に長年かけて、寸分の隙もなく面白くしたつもりなので、ぜひ多くの皆さんに読んでいただけたらと思います。
