「いちばんいろいろなことを教えてもらったのは高峰秀子さんかな」
『女が階段を上る時』(1960年)をはじめ、成瀬巳喜男監督作で多く共演した高峰秀子さんには、「映画はマイクがあるんだから、あまり大げさな芝居はしないでね」などと、演劇とは異なる映画俳優としての作法を教わった。
数々の名女優たちと共演してきた仲代さんにとって、なかでも大事な存在だったのは1957年に結婚した妻・宮崎恭子さんだ。実は映画『火の鳥』に抜擢された際も、彼女が“重要な役割”を果たしていたのだと月丘夢路さんが話している。
〈(筆者注・ラジオドラマ『月遠けれど』で)一緒に仕事をしていたのは、今は彼の奥様になっている宮崎恭子さんで、そのころのお二人は楽しい婚約時代といったとこだったのね。ラジオ・ドラマのお仕事は、どうしても夜が遅くなりがちでしょう。そのときも、遅くなった宮崎さんを迎えに仲代さんがスタジオに来たのを、わたしが見つけたというわけ〉(『週刊東京』1957年10月号)
「四十代初めから五十歳までがいちばん面白かった」
1975年にふたりで無名塾を立ち上げ、後進の育成に取り組みだした時期を回想し、〈今思うと、ぼくの役者人生は無名塾を始めた四十代初めから五十歳までがいちばん面白かったですね〉(『遺し書き』)と仲代さんは記している。
「無名塾が四十何年間と続いているのは、彼女が引っ張っていったからです。私ひとりではできませんでしたよ」
1996年に亡くなった恭子さんについて、そう語る仲代さんの言葉が、2021年の取材記事を締めくくる一言となった。