11月8日、肺炎のため92歳でこの世を去った俳優の仲代達矢。1952年に俳優座養成所に入り、映画と舞台、主に二つの世界で観客を魅了してきた名優の素顔、そして生涯を通してこだわり続けたこととは――。2021年、役者生活70周年の時の言葉と共に、その足跡を辿る。
◆◆◆
「ははは。若い、若い」
映画デビューして間もない1950年代後半の雑誌記事に目を通し、「ギリシャ彫刻のような体躯」「新しい二枚目」などの言葉が添えられた若き日の写真を見て、仲代達矢さんは目を細めた。
2021年秋、石川県七尾市の能登演劇堂で仲代さんにお話を聞いたのは、役者生活70周年を記念する無名塾の舞台『左の腕』の公演中のことだった。
無名塾の合宿地だった縁で、演劇による街作りの気運が高まり、七尾市に能登演劇堂ができたのは1995年。以来、仲代さんはこの劇場の名誉館長を務め、無名塾の定期公演をここで行い、みずから舞台に立ってきた。
公演中には、劇場前の通りに「歓迎無名塾」と書かれた幟がいくつも立ち、観客たちを出迎える。ロビーで地元の産品が販売されるのも、街や人々と一体化した、この劇場ならではの風情だ。
「声は日ごろから訓練してるのでどうにか出ますけれども……」
仲代さんは能登を「第二のふるさと」と呼んできた。その最後の舞台が、2024年の能登半島地震で損壊した能登演劇堂の復興公演(2025年5月~6月)だったことに、不思議な巡り合わせを感じてしまう。
2021年の舞台では、あと1年強で90歳になる年齢を感じさせない立ち回りを演じ、迫力のある声を聞かせていた。
「声のほうは日ごろから訓練してるのでどうにか出ますけれども、足腰は若い時と比べるとだいぶ参ってますよね。それをどうカバーしていくかが、私にとっては現役の俳優を続けていくいちばんの課題です」
そのためには日々の努力しかない。若者と比べて10倍くらい訓練しなくてはならない。仲代さんはそう話していた。「もはや気力です」と。
しかし仲代さんは、俳優として頭角を現した20代後半の若手時代から、同じように日々の鍛錬を大事に考えていた。
〈一日一日の俳優修業を、地味に積み重ねて、いろんな人間をやって行きたい〉(『週刊新潮』1959年2月9日号)

