「たいへん失礼なことをしたと反省しています。しかし貴重なる、いい意味での戦いがありましたね」と仲代さんは当時の撮影現場を振り返った。

「三國さんも三船さんも今はいらっしゃりませんが……」

 2021年の取材では、役者生活70年を回顧し、三國連太郎さん以外にも三船敏郎さんなどとの思い出を話していただいた。

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「三國さんも三船さんも今はいらっしゃりませんが、すごい先輩方に育て上げられたなと思います」

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 なかでも共演した先輩女優たちについて、仲代さんは「役者としていろいろなことを教えてもらいました」と感謝の気持ちを口にした。「そもそもが月丘夢路さんに初めて認めていただいたわけですから」。

 1952年、俳優座養成所に入所した仲代さんは、銀座のバーでアルバイトをしながら役者修行に励み、1955年に晴れて俳優座に入団した。だが映画のオーディションにはなかなか合格しなかった。

 9回もオーディションに落ち、演劇だけでやっていこうと考えはじめていたとき、ラジオドラマ『月遠けれど』(1955~56年)にエキストラ同然で出演していた仲代さんを、主役だった月丘夢路さんが見出した。そのときを振り返る彼女の証言が残されている。

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〈背の高い、いわゆる青白き二枚目タイプの人なんだけど、それでいて、なんとなくボサッとした感じもあって、とても印象的。「あの人、ダァレ?」そばにいた金子信雄さんにそっと聞くと「とても有望な俳優座の新人でね、仲代達矢というんだ」というはなし。その時はじめて仲代さんという名前を聞きました〉(『週刊東京』1957年10月号)

 彼女が映画『火の鳥』(1956年)の相手役に仲代さんを抜擢したことから、その後の日本映画を代表する無二のスターは誕生した。

「いちばんいろいろなことを教えてもらった」のは“あの名女優”

「素晴らしい先輩女優の方々との巡り会いがありました」と言って、仲代さんは月丘夢路さん、山田五十鈴さん、高峰秀子さん、原節子さんら、昭和を代表する女優たちの名前を挙げた。山田五十鈴さんには「自分のセリフを覚えるより相手のセリフを覚えなさい」と、受ける芝居の大切さを教わった。