巨大なプラットフォームを発見

 イオンモールから先に進むと、左手には小高い丘とひときわ目立つ古びた背の高い構造物。そして、プラットフォームなどもそのままに残された志免鉄道記念公園が待っている。

 勝田線においては最も大きな規模を有していた、志免駅の跡である。

 
 

 かつて、勝田線の沿線にはいくつもの炭鉱があった。中でも代表的なものが志免炭鉱だ。志免駅跡の近くにある背の高い構造物は竪坑の跡、小高い丘はボタ山だ。

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 戦時中までは海軍の直営、戦後は国鉄の直営炭鉱として続き、1964年に閉山している。つまりここで掘られた石炭が海軍の軍艦の燃料となり、戦後はSLを走らせたのだ。

 そして勝田線も、志免炭鉱をはじめとする炭鉱の石炭輸送で活躍した、炭鉱路線としての歴史を持つ。

 

かつては石炭を運びまくっていた

 勝田線は1918~1919年にかけて、筑前参宮鉄道によって開業している。“参宮鉄道”の名の通り、ひとつの目的は沿線の宇美八幡宮への参詣客輸送。そしてもうひとつが石炭輸送だった。

 

 世相も戦時色が強くなってゆくと、参詣客輸送より石炭輸送の比重が大きくなり、戦時中には西日本鉄道への合併を経て国有化される。

 並行する香椎線と間に連絡線も設けられ、沿線には炭鉱住宅がずらり。石炭を運んで運んで運びまくり、まさに帝国の命運すら左右するほどの重要路線だったのである。

 戦後も志免炭鉱が国鉄直営になったこともあって、勝田線は炭鉱路線として続いていった。しかし、徐々に石炭のニーズは減ってゆく。

 

 昭和30年代には、志免炭鉱の民間への払い下げ方針も決定している。この払い下げは労組の猛烈な反発もあって実現せず、結果として国鉄の手で志免炭鉱は閉山した。

 そして志免炭鉱の閉山で大きな役割を失った勝田線は、途端に超のつくローカル線へと立場を変えてゆくのである。