なぜ人口増なのに廃線に?

 ドル箱だった石炭輸送を失っただけでなく、旅客も激減する。1960年には年間約260万人いた旅客は1975年に約60万人、4分の1以下にまで減っている。

 石炭とともにあった町と路線が、炭鉱閉山と共に衰退してゆく……。この時代、日本中あちこちで見られた風景である。

 

 ところが、勝田線の凋落とは裏腹に、沿線一帯は活気づく。というのも、福岡市の発展に伴って、そのベッドタウンとして急速に開発が進んでいったのだ。

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 炭鉱住宅は次々に現代的な住宅地に生まれ変わり、周囲の丘陵地は切り開かれてニュータウンへ。昭和50年代、勝田線沿線は福岡県内でもトップクラスの人口増加率だったという。

 

 しかし、こうした沿線の発展から勝田線は完全に取り残されてしまった。炭鉱の町がベッドタウンに変わっても、勝田線だけはいつまでも炭鉱路線、といったところだろうか。

 沿線の町からはひっきりなしに西鉄の路線バスが走って博多や天神までを結び、ほとんどの家庭はマイカーを持つ。そうした中で、1日に5~6往復しか走らない古びた勝田線は、たいした役に立たない。

 

 時は国鉄末期、莫大な赤字を抱えて元炭鉱路線を現代的な通勤路線に変貌させるほどの余力がなかったことも影響しただろう。勝田線は、“ひとつ前の時代の象徴”になってしまったのである。

 

 そうして1985年に勝田線は通勤路線化することもなく、廃止になった。

 跡地は沿線自治体に譲渡され、多くの区間が遊歩道に生まれ変わった。志免駅の跡から先も、ほとんどの区間が遊歩道として整備されている。