失くしてみて、その有り難さにあらためて気付くこともある。

 そう、母親の手料理みたいなものだ。実家を出て、ひとり暮らしを始めたばかりの頃、コンビニ弁当やレトルト食品の夕飯が妙に新鮮だったりする。ある意味、真夜中に一人で食べるカップ麺は自由な生活の象徴だ。しかし、しばらくするとあまりの単調な味に愕然として、やがてそれらの匂いを嗅ぐだけでも食欲が失われる。そして、思うわけだ。「毎日、決まった時間に用意してくれていた、母ちゃんの手料理は最高に美味かったんだな」と。普通にあって当たり前の日常にいる時は気が付くことができなかった、その貴重さ。

 今の巨人ブルペンにおける、スコット・マシソンみたいなものだ。来日7年目の今季は34試合で0勝3敗8セーブ、14ホールド、防御率2.97を挙げるも、7月29日に左膝痛で選手登録抹消。先日、患部の状態が回復しないため渡米して左膝手術を受け、今季中の実戦復帰は絶望的と報じられた。近年の背番号20は「巨人ブルペンの最後の砦」といった存在だった。カミネロが不安定でも、上原が衰えても、澤村が劇場炎上でも、俺らにはマシソンがいる。そんな切り札だったのである。

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左膝手術を受け、今季中の実戦復帰は絶望的と報じられたマシソン ©文藝春秋

ノーコンで客席から野次られた来日1年目

 過去とは美化された嘘だ。今でこそ、投手キャプテンを務め、若手を海外ハンティング自主トレに招き、新外国人選手に東京の地下鉄の乗り方をレクチャーする“マシソン先生”と慕われる男だが、来日初年度の春を覚えているだろうか?

 2012年2月17日付のスポーツ報知を確認すると、初の紅白戦で加治前竜一の頭部死球を当て、『荒れ荒れ……9連続ボール マシソン4四死球』と報じられている。あまりの制球難に客席からは「代われー」なんて野次が飛んだという。2月23日の韓国・ハンファ戦ではいきなり2連続四球でピンチを招き、直後にボークを取られる乱調ぶり。セットポジションとクイックに課題を残す記事の見出しは『不安も増しソン』だ。OBの評論でも「セットポジションで静止しようと気を使う素振りを見せるなど、投球に集中しきれていない。現在の制球では抑えは厳しいと言わざるを得ない」とバッサリ。

 注目すべきは、そんな逆風の中で当時27歳のマシソン本人が「日本のボールも好きだし、全ての環境が素晴らしい。言い訳があればいいけど、言い訳のしようがない。早く自分を取り戻したい」と現状を受け入れ休日返上でシャドーピッチングに励んでいることだ。今のゲレーロとは全然違うぜ……じゃなくて、20代前半に2度の右肘手術を受けたマシソンにとって、新天地での成功が野球人生を懸けた大勝負だった。

 だが、ようやく日本の野球に慣れ始めた12年7月27日には右肘の違和感で登録抹消。当初は残りのシーズンは絶望的と思われたが、8月7日に渡米して検査と治療を済ますと、13日には早くも再来日して翌日からG球場でリハビリ開始。急ピッチでトレーニングをこなし、なんと10月のシーズン終盤には1軍復帰登板を果たした。NPBを腰掛けと考える助っ人とは本気度が違う。1年1年が絶対に負けられない戦い。オレは東京ジャイアンツで成功してみせる。その断固たる意志とタフさで毎年ひたすら投げまくり、16年にはキャリアハイの年間70登板で自身2度目の最優秀中継ぎ投手賞を獲得。気が付けば、背番号20は巨人ファンの間でも特別な選手になっていた。