村田修一は、「引退」の二文字を使わなかった。それはなぜか。村田自身が口にしたように、まだシーズンが続く栃木への配慮もあるだろう。ただ、それ以上に大きかったのは「本当にこれで終わりなのかよ」という戸惑いのような感情ではないか。7月末までのBCリーグでの成績は打率3割5分2厘、9本塁打、44打点。「コンディションはNPBの1軍でプレーできるレベル」と話したのも心からの本音だろう。だからこそ、なぜなんだ、という思いが改めて去来していることは想像に難くない。
「体力の限界……気力もなくなり……」
昭和の大横綱千代の富士はそう言い残して土俵を去った。矢折れ、刀尽きるような状況ならあきらめもつく。だが、体力も気力も充実している中で働き場を奪われたスラッガーの無念さを思うと心が痛む。
孤軍奮闘する中で、ファンの批判の矛先に…
村田のプロ野球人生は、毀誉褒貶相半ばするものだった。2003年に入団した横浜(現DeNA)は、98年優勝メンバーだった石井琢、佐伯、鈴木尚らが衰えていくチームの過渡期にあり、在籍した9年間でなんと最下位7回。村田自身は本塁打王を2度獲得するなどほとんど孤軍奮闘といっていいプレーを続けていたが、ファンの批判の矛先はチームの大黒柱である4番に向かった。
横浜スタジアムの関係者駐車場は公道に面しており、一方的な敗戦(しょっちゅうだった)の後などにフラストレーションのたまったファンから口汚いヤジを浴びせられることも多かった。
「村田さーん、やる気ありますかぁ?」
「いくらなんでも弱すぎる!」
あまりにもリスペクトのない言い方にキレた村田がゴンタ顔でファンの方に向き合い、一触即発の状態になったこともあった。