容疑をかけられた「立川グループ」の素性
清張が注目した「立川グループ犯行説」と「米軍関与説」については、実際にそれなりの信憑性がある。
まず「立川グループ」については、自殺した浜野健次が「容疑者第1号」であるとすれば、捜査本部が時効直前に別件逮捕した「最後の容疑者」とでも言うべき人物が、事件当時18歳だったZ氏(逮捕時は25歳)である。
この「浜野」「Z氏」は、ともに地元不良少年で構成された「立川グループ」のメンバーだった。つまり、3億円事件の「震源地」として最初から最後まで捜査本部にマークされていたのがこの「立川グループ」であったと言ってもいいのである。
なぜ、このグループが注目されたのか。それは、事件に大量の「犯行用車両」が用意されていることで、組織的な車両窃盗グループが関与したと考えられていたからである。
3億円事件に関しては、さまざまな推理や謎解きがなされてきたが、この「立川グループ」をまったく無視したものはほとんどない。当時の多摩エリアで、最も機動的にクルマを盗み出せたのは誰かと考えれば、それは彼ら以外になかったのである。
「立川グループ」には、事件と次のような接点があった。
(1)1968年3月3日、グループの18歳と19歳のメンバーが立川駅北口のスーパーマーケット「稲毛屋」に押し入り強盗事件を起こしている。それは、発煙筒を投げ込み「ダイナマイトだ」と爆発物に見せかける手口で、3億円事件との類似性が目立つ。
(2) どのメンバーも日常的にクルマの窃盗を重ねており、三角窓を割ってエンジンとスターターを「直結」するという基本手口は、3億円事件に使用された逃走用の盗難車両においても同じだった。
(3) ほとんどのメンバーが地元出身で土地勘があり、逃走経路や道路事情を知り尽くしている。もちろん運転技術はクルマ、バイクとも巧み。
さらに、時効目前の1975年11月に別件逮捕された元メンバーZ氏には、次のような犯人性があった。
(1) 都内の高校中退後、就職先を転々と変えていたが、事件翌年に新車を購入したり喫茶店を経営、さらには金融会社を設立するなど、3年間で数千万円を動かしていた。
(2) 現金輸送車が乗り捨てられていた現場でシンナー遊びをしていたことがある。
(3) 事件当時は「免許を持っていない」という理由でシロとされていたが、その後の調べで、運転技術自体は非常に巧みだと分かった。
Z氏に対する捜査は捜査本部の「最後の賭け」でもあった。Z氏は時効直前の10 月に別件の恐喝容疑で事情聴取されると、その翌日、結婚式を挙げるためアメリカに飛んだ。
土壇場での急展開に、メディアもアメリカへ飛び報道合戦が始まったが、もはや「時間切れ」なのは明白であった。
「疑われているなら自分から説明する」と翌月に帰国したZ氏は、空港で待ち構えていた警視庁捜査4課に逮捕されたが、3億円事件への関与を完全に否定。その供述を覆す証拠もなく、事件は時効を迎えたのである。
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