低空飛行になったら落下は早い
羽生正宗に依頼された別府市での講演は6月24日、朝男に付きそってもらい無事、終えられた。寿子の日記には感謝の言葉が並ぶ。
〈神様ありがとう。あっちゃん、ありがとう。あっちゃんが支えてくれたから、やり終えたよ〉
そして、26日を迎える。余命を宣告された日である。
がんが見つかったとき、寿子は回復に期待をかけながら、万が一の場合も念頭に置いていた。そのときは自宅で最期を迎えたかった。友人や知人に囲まれ、にぎやかな空気に包まれているのが好きである。病室で最期を過ごすのは避けたかった。医師にこうたずねた。
「緩和になったら自宅で過ごしたいんです。この病気は、動けなくなってから長く生きるのでしょうか」
寿子は看病してくれる「あっちゃん」を気に掛けていた。優しい夫である。2、3カ月程度なら快く面倒を診てくれるはずだ。しかし、動けなくなったまま1年も2年も生き続けたならどうだろう。80歳目前の朝男は体調を崩してしまうのではないか。夫に迷惑をかけたくない。最後まで愛してもらいたい。心配する寿子に主治医が説明する。
「終末期は短いはずです。この病気は低空飛行になったら落下は早いです」
言われたのは、がんが見つかってすぐのころである。寿子はむしろ胸をなでおろした。
「うーん、1カ月というところかな」
抗がん剤の効果がみられないとわかった26日、寿子の頭に浮かんだのは、以前聞いた「低空飛行」という言葉だった。
「先生、低空飛行はいつごろになりそうでしょう」
「それは……、今です。まさに急降下しています」
「えっ」と驚きながらも、冷静さを失わない。
「では、あとどれくらいでしょうか」
「うーん、1カ月というところかな」
死への恐怖はなかった。寿子は言う。
「私たち(朝男と自分)もちょっと仰天したね。せめてもうちょっとだと思っていたから……」
すぐに子どもたちにLINEで知らせ、「でも、お医者さんは少し厳しめに言います」
と付け加えた。
翌日夜からせきが激しくなった。28日は午前中に小林クリニックに出かけている。約300メートルの距離が歩けそうにないため、朝男が借りてきてくれた車椅子に乗った。闘病日記の記述である。
〈あっちゃん小林病院までつれていってくれる。感謝〉
かかりつけ医の小林から進められたパッチ型の痛み止めが、体に合ったようで、吐き気は治まった。しかし、さらなる「急降下」はいつ起きても不思議ではない。神戸で予定していた、最後の講演が9日後に迫っている。話し切れるだろうかと不安になった。小林は「医師として完全にサポートするから」と励ましてくれた。

