「メイク・ア・ウィッシュ・ジャパン オブ ジャパン」(MAWJ)の初代事務局長として、約3000人の難病の子どもたちの夢を叶えてきた大野寿子さん。そんな大野さんは、2024年6月、肝内胆管がんにより「余命1カ月」を宣告される。
そんな大野さんの最期の日々に密着した感涙のノンフィクション『かなえびと 大野寿子が余命1カ月に懸けた夢』(文藝春秋)が好評発売中。
今回は本の中から、闘病中の大野さんのもとに、かつて夢を実現してもらった西原海さんと母由美さんが訪れた際のエピソードを一部抜粋して紹介する。
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ふさぎがちだった家族の心を解き放ったもの
(2024年)8月5日には、東広島市の西原海(かい)が、母由美らと一緒にリクライニング式車椅子で訪ねてきた。
1989年に生まれた海は1歳7カ月のとき、保育所で水の入った洗濯機に転落し、脳にダメージを受けた。話すこともできず、まぶたも閉じられない。定期的に唾液や痰の吸引が必要である。ふさぎがちだった家族の心を解き放ったのがMAWJである。
由美がこのボランティア団体を知ったのは97年の初夏だった。医学雑誌を読んでいると、「難病の子どもの夢をかなえる団体」と紹介されていた。
家族には夢があった。東京ディズニーランドへの旅行である。かなえてもらえるだろうか。希望を持ちながらも、由美には懸念があった。海は重い障害を持っている。ただ、それは「病気」と言えるだろうか。「ダメでもともと。とりあえず聞いてもらおう」と連絡すると、電話口に出たのが寿子だった。
由美は海のこれまでの経験を話し続けた。事故に遭う前、ミッキーマウスのぬいぐるみを抱いて「イッキー、かわいい」と口にしたのを思いだし、涙がこぼれた。寿子は言った。
「お母さん、泣かないでよ」
海の状況を聴きながら、寿子は思った。
「助けるのは難しいかもしれない」
ディズニーランドに出かけたあの日を忘れない
MAWJはプロジェクトの条件として、本人から直接夢を聞き取ることを課している。家族ではなく、子どもの夢でなければならない。
由美も寿子の反応から、実現は難しそうだと感じた。その予想に反し「やります」との連絡が入ったのは約1カ月後である。医師の意見書が判断材料になった。寿子はそのとき、由美にこう説明している。
「お母さんの熱い思いと、田中(文夫)先生(医師)の意見書がみんなを動かしたの」
海は52番目のウィッシュ・チャイルドになった。由美は家族で広島からディズニーランドに出かけたあの日を忘れない。
「新幹線で東京駅に着くと、大野さんが『よく来たねー、海君』と言って、満面の笑みで迎えてくれたんです」
広島から付きそってきたボランティアの男性はこう言ったという。
「この3日間、海くんは王様なので、何でも遠慮せずに言ってくださいね。ウィッシュ・チャイルドと家族が、心おきなく楽しむための、ぼくたちは召使なんですよ」
海はディズニーランドを満喫する。ナイトパレードでは、頭のてっぺんから足の先まで、全身で音や光に反応し、感動ぶりが言葉を超えて伝わってきた。寿子はこう言った。
「いろんなドラマがあるから、この仕事がやめられないの」
重い障害を持ちながらも海は外での活動を喜んだ。その後、ボランティアの支援を受けながら富士山に登り、海外にも出かける。

