泣かないと誓ったのに涙があふれてくる

 その後も家族と寿子との交流は続き、東京を訪ねるときはいつも大野宅に泊まった。そうやって励まし続けてくれた寿子が今、ベッドで横になっている。会うのはこれが最後になるかもしれない。

 別れるとき、由美は寿子の体を強く抱きしめた。全身で感謝を伝えたかった。互いの腕に力が入る。泣かないでおこう。そう誓っていたのに涙があふれてくる。

 海に勇気をくれた寿子。障害を吹き飛ばすほどの笑顔をくれた寿子。その恩人がいなくなってしまう。それを想像し、涙が止まらない。寿子が言った。

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「泣いちゃ嫌よ」

 由美はうなずくだけで言葉にならない。

 すぐ隣では、リクライニング型の車椅子で海が横になっている。由美が言った。

「海くんの目もうるんでいる気がする」

 確かにその瞳は湿っているように見えた。

怒涛のように、えぐるように、金属的痛みが……

 寿子の意識レベルが下がり始めたのはこのころである。昼は多くの来訪を受けて、気を張っているが、夜になると疲れが出る。日記にもそれが記されている。

〈小倉さんがいた時までは、「痛みはコントロールされている」と言っていたのに、帰られた後ひとねむりしたら初めての強烈な痛みで目が覚める。い・た・い 怒濤のように、えぐるように、金属的痛みがおそってくる。これががんの痛みだったのかと知る。今までよく痛くなかったよ。おかげでみんなに会えた。みんなに会うのも終わりという日が来るのだと思う。神様、願わくばギリギリまで〉(8月5日)

〈日付やら何やらこんがらがっている。朝食を食べた記憶がないまま、ウツラウツラが続いた。明日から、(来客予定がないため)カレンダー白が続く。神様がお休みを言っているのかな〉(7日)

大野さんの闘病日記 ©文藝春秋

 8日になると、もうろうとする時間はさらに長くなる。私が訪ねると、朝男が説明した。

「寿子ちゃんの滑舌が悪くなってきてね。病気のせいかどうかわかんないけど」

 本人も自覚しているようで、「そう、悪くなったね。口がべたべたしているからかな」と言った。

 ベッド横に設置している酸素吸入器の酸素量を上げると、心臓に負担がかかるため、あまり上げられない。

「この機械は五段階で設定できるの。これまでは一番少ない量を吸っていたんだけど、それでは苦しくなってきてね。風呂やトイレに行くときには、もう少し上げてもいいってお医者さんに言われて。だから少し上げています」

 薬で痛みをコントロールしているが、筋力は落ちてくる。

「トイレに立つにもふらふらです。筋力がなくなると、気力まで萎えていくのよ」

 朝男からコーヒーを受け取ろうとして、カップを傾けてしまった。腕に力が入らないという。

「シーツがぬれてしまって、あっちゃんに洗ってもらったの。ありがとう、あっちゃん」

次の記事に続く 「今です。まさに急降下しています」立ち上がれず、ひどい下痢で服も汚す…末期がんの女性が医師から「余命1カ月」を宣告された瞬間の心境とは