帰りの車で聞いた“父の野球論”

 神宮球場での観戦後、一緒に自宅まで戻る日々が始まった。車を運転する広岡が、その日の試合の感想、選手たちの批評をする。祥子さんは黙ってそれを聞いていた。

「覚えているのは角(富士夫)さん、水谷(新太郎)さんですね。いつも、“下手くそだ”って言っていました。自分がショートだったから、やっぱり内野手が気になるんだと思います。“結局、ラクして手だけで捕りにいくからダメなんだ”とか、“できるだけ身体の正面で捕球すれば、もしも捕り損なっても身体の前にボールが落ちるからアウトの可能性が高まる”とか、そういう話は何度も聞きました」

 1977年、スワローズは球団創設初となる2位となった。この頃から、祥子さんの中で、チームに対する印象も変わっていく。

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「明らかに勝つ回数が増えていきましたよね。先発ピッチャーが最低でも5回を投げ切るようになったし、先発ローテーションも明確になりました。当時はまだ、“気合いで投げます”という時代だったから、その試合はよくても、最終的には駒不足になってしまうことが多かったけど、あの頃のヤクルトは違いましたね。父もよく言っていました。“中何日できちんと休んでいる以上、自分が投げる試合は責任を持って投げ切らなければいけない”って。別に私に向かって言っているわけじゃないんだけど、自然と耳に入ってくるので、私も、“なるほど、そういうものなのか”って思って聞いていました」

 これまで何度も広岡に尋ねてきた「ローテーションの確立」について、改めて傍証が得られた思いだった。

井上陽水が来訪も「“ただの井上君”だと思って…」

 また、意外だったのが作家・海老沢泰久との交流だった。

――広岡さんがモデルとなっている小説『監督』はご存じですか?

「知っています。私は読んではいないけど、父は読んでいたようです。“選手たちは、自分を飛び越えてコーチに向かって不満を告げている”と聞いたことはあります。いつだったかは忘れたけど、海老沢さんが井上陽水さんをうちに連れてきたことがあります」

 意外な組み合わせだった。しかし、すぐに気がついた。かつて海老沢は陽水を題材とした『満月 空に満月』(文春文庫)を出版している。

「でも、うちの両親は音楽のことに疎いから陽水さんのことを知らないんです。応接室で父と海老沢さんと陽水さんがいて、母がお茶を出したんです。そのときに海老沢さんが、“友だちの井上君です”と紹介したので、母はただの井上君だと思って、“どうも”とあいさつをしただけで、それで終わりだったそうです。そのとき何を話したのかはわからないけど、父が音楽の話をするとは思えないから、たぶん野球の話をしたのだと思います」

 初めて聞く話ばかりだった。いくら広岡への取材を続けていても、「井上陽水」という言葉が出てくることは決してなかっただろう。