広岡達朗は『がんばれ!!タブチくん!!』を知っていた
祥子さんには、いしいひさいちの大ヒットマンガ『がんばれ!!タブチくん!!』(双葉社)についても尋ねた。田淵幸一、安田猛、そして広岡達朗ら、実在の人物をモデルとしたギャグマンガで、後にアニメ映画化もされている。広岡のパブリックイメージである「厳格でクール」という印象は、この作品でより一般的に、より強固になったと言えるだろう。
「そうそう、玄関に鍵をいっぱいつけていてね……」
祥子さんは、そう切り出した。そうだ、確かにそんな回があった。帰宅後、久しぶりに単行本を取り出して確認すると、それは第二巻に収録された「忘れ物」という一編だった。
球場に向かう広岡。ガスの元栓を締め、ストーブの火を消し、窓が閉まっていることを確認し、「忘れものはなし、うむ」と独り言をつぶやいて、玄関に鍵をかけて家を出る。その扉にはたくさんの鍵がついている。神経質で、何事にも慎重な広岡だったが、最後のコマでは靴を履くのを忘れて裸足で家に走る彼の姿が描かれている。
およそ45年も前の掌編をいまだに記憶していることに驚いた。それだけインパクトが強かったということだろう。
実はそれ以前に、本人に『がんばれ!!タブチくん!!』について尋ねたことがある。私の質問に対して、広岡は「そんなマンガは知らない」と言った。構わずに私は続ける。
――銀縁の眼鏡をかけて、家では着物を着ていて、グラウンドではヤスダ君、オオヤ君に厳しく接する人物です。
「私はあんな顔をしていないし、あんなしゃべり方をしない」
見ていたのである。マンガ版のみならず、映画版も知っていたのである。「そんなマンガは知らない」と言った手前、気まずくなったのか広岡が続ける。
「娘から一度だけ見せてもらったことがある。だけど、まったく私に似ていないし、私とは全然違う人物だよ、あのマンガのヒロオカという人物は」
祥子さんが続ける。
「私自身は、あのマンガを楽しく読んでいました。実際の父とはまったく異なる性格でしたけど、あれはあれでマンガとして面白かったので、ぜひ一度、いしいさんには会ってみたいですね。そういえば父はあのマンガについて、作者が一度もあいさつに来ていないことを怒っていました。勝手にやるのはやっぱり、ちょっと失礼だと思いますから」
昭和から平成、そして令和となった現在も、「ヒロオカ」ならぬ「広岡」は活躍中だ。『小説新潮』(新潮社)に連載中の「剽窃新潮」には、小説家の「広岡先生」が登場している。もちろん作者はいしいひさいちである。