1978年、ヤクルトスワローズが叶えた奇跡の日本一。“冷徹な監督”は優勝未経験の弱小球団をどう変えたのか。数年にわたる取材で名将・広岡達朗の過去と現在に迫った書籍『正しすぎた人 広岡達朗がスワローズで見た夢』が発売される。家族が初めて明かす、広岡達朗の素顔とは――。同書籍より、長女の祥子さんに話を聞いた章の一部を紹介する。
◆◆◆
「全然厳しくない」「子どもの判断を尊重してくれた」
「物心ついた頃の記憶は、父の現役晩年でした。私はまだ幼稚園児でしたけれど、テレビに映る父の姿は理解していたようです。でも、ヒットやファウルの区別はついていないから、父がバットに当てると、テレビのある和室からキッチンまで走っていって、“ママ、パパが打ったよ”って、必ず伝えに行っていたようです」
すでに還暦を過ぎているとは思えない、若々しい表情で祥子さんは言った。その名前は、広岡が師事する中村天風の命名によるものだった。インタビューが行われている隣の部屋では広岡が大音量でテレビを見ている。
球史に残る昭和の名将の何気ない日常風景が、そこでは展開されていた。
「親子仲は良かったと思います。友だちが、自分の父親のことを“くそジジイ”と言っているのを聞いて驚いたぐらいですから。といっても、それほど親密な間柄だったわけではありません。小さい頃から一緒に過ごす時間が少なかったから。たまに父が帰宅したときには、嬉しくて抱きついていたんですけど、ある時期から、“もう重いから、飛びつくことはやめなさい”って言われたことを覚えていますね」
世間では「厳格でクールな男」として認識されている。自宅での広岡は、どんな様子なのだろうか? 子どもたちにとって、どんな父親なのだろうか?
「私から見たら、全然厳しいとは思わないです。嘘をついたり、遅刻をしたりすることについては注意されたけど、子どもの判断を尊重してくれて自由に育ててくれたと思います。ただ、“朝、目覚めてすぐに冷たいものをお腹に入れるな”とか、“炭酸飲料は飲むな”ということはよく言われました。カップラーメンも食べることはなかったですね」
自宅には二台の炊飯器があった。一台は白米、もう一台は玄米用のものである。広岡は玄米を食べ、家族は白米を食べていた。決して家族には強制しなかった。
「私にとっての部活動」神宮球場に通い詰めた高校時代
小学生の頃、祥子さんは広岡に叩かれているという。
「小学校4年、あるいは5年生ぐらいのことでした。兄が弟に意地悪をして、弟が泣いてしまったんです。私は真ん中なので、それには関わらないように黙って見ていたら、父に引っぱたかれました。理由ですか? “黙って見ていて、いい子ぶっているのが気に入らない”という理由です。今でもとんだとばっちりだと思っています」
祥子さんはケラケラと笑った。
1960年11月に生まれた。1974年、広岡がスワローズのコーチになったときにはすでに中学生となっていた。
「身体を動かすことが好きだったので、中学三年までは器械体操をやっていて、高校ではフィギュアスケートをやっていました。ただ、私の場合は温度差にアレルギーを感じる体質だということが、後でわかりました。夏場にリンクに出ると寒冷じんましんが出るようになって、体質的に合わなかったんです」
ちょうどその頃、広岡の監督就任が決まった。同時に祥子さんの生活も激変する。
「父がコーチだった頃は、私たちも気合いを入れて“よし、応援しなくちゃ”という感じではなかったけど、監督になると決まってからは一生懸命、応援をしました。高校1年まではスケートをしていたんですけど、父が監督になったこともあって高校2年からは帰宅部として、毎試合神宮球場に通うようになりました。私にとって、それが部活動になりました。もうほぼほぼ全試合です。帰りは父と一緒に帰れるので」
スワローズの監督時代、そのほぼすべてにおいて祥子さんは神宮球場のスタンドから、父の雄姿を見届けていたのである。
