2025年、コミックマーケット(コミケット/コミケ)は50周年を迎えた。1975年12月21日に日本消防会館会議室で「コミックマーケット1」が開催された当時の参加サークル32、参加者は推定700名(「コミックマーケット40周年史」有限会社コミケット発行)だったが、いまやコミケは30万人を動員する「オタクの祭典」へと成長した。
だが、その半世紀の歴史を紐解けば、そもそも開催が危機に瀕したことさえある。それが1991年の「コミケ幕張メッセ追放事件」である。
事件のあらましにふれる前に、当時のコンテンツ産業を取り巻く社会状況をおさえておく必要がある。
宮崎勤事件に端を発した“おたくバッシング”
この「追放事件」に先立つ1989年8月、日本中を震撼させた首都圏幼女連続殺害事件の犯人が逮捕された。いわゆる「宮崎勤事件」である。メディアの注目度が高く、一部マスコミによって犯人の居室が報道されると、ビデオテープやマンガに埋め尽くされた部屋に世間は騒然とした。
この映像自体、のちにメディアによって恣意的に操作されたヤラセであったことが発覚するが、しかし創作物への表現規制に大きな口実を与えることになる。すぐさまマンガやアニメ、ホラーや特撮を好むファンに「おたく」のレッテルを貼り、バッシングする風潮が強まった。犯人が「コミックマーケット35」(1989年3月25、26日)にサークル参加をしていたとの報道があったことも、「おたくバッシング」に拍車をかけたのだろう。
その一方で、コミケの参加者は増加の一途を辿る。宮崎勤逮捕報道直後に晴海の東京国際見本市会場で開催された「コミックマーケット36」(1989年8月13、14日)の参加者は10万人、幕張メッセで開催された「コミックマーケット37」(1989年12月23、24日)の参加者は12万人だったのに対し、翌夏の「コミックマーケット38」(1990年8月18、19日)は23万人とほぼ倍増している。
事件報道で大きな注目を集めた結果、それまでコミケの存在を知らなかった層にも知られるようになり、参加者増加につながったと推測される。世間的にはマンガやホラービデオの自主規制が進むなか、世間の風潮と逆行する現象が起きたわけである。



