アメリカ映画的「ロードムービー」要素がヒットの要因に
もう一つ、本作が海外で受け入れられた理由として見逃せないのが、ロード型サバイバルの構造だ。『イクサガミ』はデスゲーム作品でありながら、舞台を閉鎖空間に固定しない。京都から東京へという一本の道が物語を貫き、参加者たちは常に前へ進むことを強いられる。生き延びることと移動することが、ほぼ同義として設計されているのだ。
この「移動」を物語の軸に据えるロードムービーは、とりわけアメリカ映画の文脈において馴染み深い。それは、西へ、西へと進む開拓者神話に端を発し、逃走、放浪、再生、あるいは破滅を描く形式として発展してきた。ロードムービーにおいて、道を進むことは自由の象徴であると同時に、社会との決定的な断絶を意味する行為でもある。前に進むことは選択であり、同時に生存を賭けた賭けでもあるのだ。
『ハンガー・ゲーム』のようなサバイバル・スリラー、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』に代表される追走型アクション、『The Last of Us』に見られる終わりなき旅の物語は、「動き続けなければ死ぬ」、「立ち止まることが敗北を意味する」という構造であり、アメリカ映画のDNAに深く刻まれている。
『イクサガミ』が提示する「京都から東京へ」という設定は、日本史的には文明開化と中央集権化を象徴する道程だが、物語構造として見れば、アメリカ映画における「逃げ場のないハイウェイ」そのもの。どこへ行っても安全地帯はなく、道そのものが試練として立ちはだかる。目的地は希望であると同時に、死者を積み上げた先にしか辿り着けない場所なのだ。
この点で、『イクサガミ』のサムライたちは、異国の歴史的人物でありながら、アメリカ映画が描いてきたアウトローと重なって見える。社会から排除され、制度の外へ追いやられ、進むしか選択肢を持たない存在。刀は銃に、街道はハイウェイに置き換えられても、「移動=生存」という感覚は変わらない。
時代劇という外見をまといながら、『イクサガミ』はこのロードムービー的感覚を違和感なく内包している。その結果、海外の視聴者は「日本史を理解しているから楽しめる作品」ではなく、「フォーマットとして身体で理解できる物語」として本作を受け取ることができた。本作が世界で通用した背景には、このアメリカ映画的なロードの感覚を、時代劇の内部にまで落とし込んだ巧みさがある。
