トム・クルーズばりの“ガチ”アクションを実現させた岡田准一
さらに海外で強く受け止められた理由として挙げられるのが、身体のリアリティを前提にしたアクション表現と、勝敗がカタルシスとして回収されない物語構造だ。
『イクサガミ』のアクションは、CGに依存しすぎることなく、俳優の生身の身体がガチンコで躍動する。この方向性は、主演でありプロデューサー、さらにアクションプランナーも務めた岡田准一の哲学でもある。
岡田はインタビューで「プロデューサーに入る意義は、アクションを脚本の段階から話をしながら、構成できる」(※4)ことだと語り、通常であれば安全上の理由から制限されがちな表現も、制作側に身を置くことで成立させた。
例えば、最終話での30メートルの階段落ちは、本当に岡田准一本人が演じているし(しかも何度もテイクを重ねたという)、貫地谷無骨を演じる伊藤英明と一緒に炎に包まれる場面も、CGでもスタントでもなく、2人が防火服を着た“ガチ芝居”だという(※5)。
「安全にっていうよりも、芝居の延長線上でちゃんと落ちて、本当にどう対処できるのか、その絶妙なラインを目指した」(※6)という発言は、主演俳優がアクションの真正性を保証する、ハリウッド的スター像とも重なる。
岡田はこれまでも『ザ・ファブル』や『燃えよ剣』などで、スタントや殺陣の設計に深く関わってきた俳優だが、『イクサガミ』ではプロデューサーという立場から、作品全体のリアリティラインを統括する役割を担った。「CG頼み」「カメラワークでごまかす」という先入観を、企画段階から上書きしたのである。少なくとも『イクサガミ』は、身体のリアリティを前面に出すことで、トム・クルーズの『ミッション:インポッシブル』と同等の地平に立つシリーズとなった。
勝利=救済ではない…“世知辛い”アクションに共感
そして重要なのは、このようなアクションが単なる快楽や達成感として消費されないこと。『イクサガミ』では、戦いに勝つことが救済や解放を意味しない。生き残ったとしても社会の構造は変わらず、失われた家族や尊厳が回復するわけでもない。勝利は一時的な延命にすぎず、そのたびに身体と精神は確実に摩耗していく。この「戦えば前に進めるが、何かが必ず削られていく」という設計が、物語の基調として一貫している。
つまり本作のアクションは、観客にカタルシスを与えるための装置ではなく、「生き延びるために支払うコスト」を可視化するための表現なのだ。剣を振るうほど楽になるのではなく、むしろ追い込まれていく。この感覚は、勝敗や英雄性を中心に据えた従来の時代劇とも、単純なサバイバル・エンターテインメントとも明確に異なる。
だからこそ『イクサガミ』は、派手な時代劇としてではなく、生存と消耗を描く現代的なアクション・ドラマとして海外で受け止められた。アクションの迫力と同時に、その代償までを描き切る誠実さが、文化や歴史の差を超えて評価されたのではないか。
