「玄一を演じる上で意識しているのは、『ミッチーであることを忘れる』。私、ミッチーというキャラクターを『透明の着ぐるみ』と表現しているんですけど、今回の現場ではそれを脱いでいます。これは、僕のキャリアでは珍しい」(日経クロストレンド2025年11月14日「及川光博×手越祐也 21年ぶり主演&7年ぶり復帰で“ゲイカップル”に」より引用)
及川はミッチーを職業(サービス業)と捉えていて「(前略)ミッチーという職業はね、飽きない商い(後略)」(『この宇宙にはあなた一人しかいない 及川光博名言集』より)。こんなふうにも言っている。
興味深いのは、ミッチーという着ぐるみを常にかぶってきたという事実である。これまでのドラマや映画ではミッチーが演じるという前提のもとにやっていたということか。だからこそ、ミッチーなのに脇にまわって、その華を抑えることもできるのだという好印象を生み出した。
ミッチーを脱いで、元来の俳優として挑んだ玄一は、街ですれ違っても気づかないような、日常に溶け込んでいる人物だ。やや前かがみでひょこひょこ歩き、時々寝癖がついている。生真面目で少し頑固だけど、嫌いになれない人物を、及川が絶妙なバランスで演じている。
第1話で玄一が語った「家を買って“かすがい”にして、俺たちの恋愛にだって意味があるんだってことを証明しましょう! それが俺たちの恋と革命です!」と拳をつきあげる様が切実に響くのは、及川光博のなかに情熱や生命力がまんたんだからだろう。ドラマでは索にこわいと引かれてしまうのだが、それが視聴者の心にも火を灯す。
まるで、コンサートで観客がポンポンを持った瞬間に変身するように、自分が変わることで自分を取り巻く世界も少しだけ変わる。及川光博にはそんな魔法の力がある。年齢も性別も関係なく、情熱やロマンさえあれば、人は生きていける。そんな人生論が中年になった及川だからこそ説得力を持った。
劇中でギターを弾いて歌ったり、エンディング曲「バームクーヘン」も歌っていて(手越祐也と白鳥玉季の3人で)、ミュージシャンとしての面目躍如である。
「ルーティーンワークを嫌う僕としては、当然退屈はしたくないし、すべてを諦めてしまう日まで音楽は作っていくと思うんですけれどーーまぁ、コアファンにはもちろん、及川光博って歌手だったの?って言ってる人にも何か爪痕を残したいですね」(「ミッチーCAST 及川光博1996―2015」より)
「ぼくたちん家」では俳優としても歌手としても爪痕を残したのではないだろうか。

