まるで他人事のように「ドラム缶という言葉も嫌ですし」と…
Bは練馬の東京少年鑑別所に収容されていた。母親がBと面会できたのは逮捕から数日後。取り調べ中の警察署か収容先の少年鑑別所かは覚えていないという。
「事件の中身については知っていましたか?」
「はい。大体わかっております」
「それを知って母親としてどう思いました?」
「どういうふうに申し上げていいか……話ができないです。それは、あまりにも、被害者の方に申し訳ないと思っていますから……同じ子どもを持つ身になって、逆の立場で考えました」
僕の質問は、つい母親としての責任を問うものになっていった。
「話ができないというのはどういう理由からですか?」
「話ができないほどつらい思いです」
母親が言う「つらさ」は何なのか。
「いまだに私は、どうして、私も、納得いかなく、今、口にすることはないですけど、いつも、言葉だとか、ま、コンクリという言葉を聞いただけでも寒気がするほどつらい思いです。いまだに、ドラム缶という言葉も嫌ですし……」
母親の返答は途切れ途切れで、どこか他人事のような口ぶりだった。
Bと母親の関係はどのようなものだったのだろうか。
「寂しがり屋で甘えん坊」
Bは1971年5月11日に生まれた。父親が24歳、母親が25歳のときの子どもで、生まれたときの体重は3700グラムと大きく発育も順調だった。住まいは足立区の都営団地で6畳と3畳の2間。父親は運送会社の配達員をしており、給料は少なかった。母親は洋裁の内職で家計を支え、一家4人で慎ましく暮らしていた。
だが両親の仲は、Bが生まれて1年後くらいにはすでに亀裂が入っていた。父親が同僚の女性と浮気をしていたことが発覚したからだ。両親は喧嘩が絶えず、父親は次第に家に帰らなくなった。Bが小学校にあがる前に関係が破局する。父親が家を出てしまい、浮気相手の女性と同居を始めたのだ。
母親は姉とBの2人の子どもを育てるため、昼は建設会社の事務員、夜はスナックのホステスとして日夜働いた。
「子どもと一緒に食卓を囲んだ記憶はほとんどないです。子どもの分の食事を作っておいて、自分は食べずに行くという……。出勤時間が決められていましたから、決められた時間に店に入らないと、罰金を取られたりするものですから。子どもにご飯を食べさせて、自分は義務的に動いていました」
「子どものころのBの性格は?」
「寂しがり屋で、甘えん坊で、だけど、それを出せない性格だったんだと思います」
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