人によって差がありすぎる「頑張る」の定義
さて、先日のこと。ポッドキャスト番組「となりの雑談」を一緒にやっている桜林直子さんが、Xで興味深いことをつぶやいていた。曰く、以前は「頑張る」を「外からの困難に耐え抜くこと」や「我慢すること」として捉えていたが、いまは考えが変わり、「自分の内にある力を信じて、腹の底からしっかり出し切る」内的エネルギーの発動として再定義し、「無理してやる」ではなく、「自分の内側にある力をちゃんと使う」というニュアンスで捉えていると。
私の定義も桜林さんとほぼ同じで、「普段は使わないが、もともと備わっている筋肉を増強して使う」が、頑張るという行為だ。
普段は60パーセントの出力でやれることだが、今回ばかりは80パーセントか、下手したら120パーセントの力を出さなくちゃ、という場面。面倒なので、できるだけ避けたいところではあるけれど、仕方がないなあという状態。
私にとって「頑張る」は、やりたくもない無理難題で身も心も削られる行為ではなく、元から持っている力を正しく使う行動だ。疲れるけれど、備わっている力を出すかあ、という心持ち。そもそもやりたくもないことや、向いていないことをするのを「頑張る」と私は言わない。
しかし、「頑張る」を、無理する、詰め込む、耐える、といった、自己犠牲の延長線上にある言葉だと捉えている人が、想像以上に存在するらしい。つまり「頑張る」の定義は人によって異なるということ。「頑張る」が自己犠牲の延長線上に存在する行為なら、私は絶対に頑張りたくない。こちとら、やりたくないことをやらずに済むために、日々頑張っているのだから。
ああ、そうか。「頑張らなくていいよ」という言葉が賞賛される現象に、私が違和感を持つ理由がわかった。「あなたのポテンシャルは発動しなくて良い」と言われているような気がするからだ。もしくは、「あなたにはそのポテンシャルがないでしょう」という諭し。しかし、「頑張る」が自己犠牲と同義の人にとってみれば、そりゃ「頑張らなくていいよ」と言ってもらえたら気が楽になる。
日本一有名なニートとして2000年代初頭にシェアハウスを始めた作家のphaさんは、「頑張る」をこう定義していた。