明治維新を迎えるまで僧侶は女性との交際や結婚を禁じられてきた。僧侶でありジャーナリストである鵜飼秀徳さんは「そのため、寺に入った少年たちが稚児として性愛の対象にされた。歴史的に有名な高僧が残した稚児愛、男色の記録もある」という――。
※本稿は、鵜飼秀徳『欲望の仏教史』(SB新書)の一部を再編集したものです。
中世の寺院では少年が性愛対象に
女犯の記事でも紹介した禅僧の一休宗純は、時に男色に興じたとされている。『狂雲集』には、生々しい記述が残されている。
「貪り看る少年の風流、風流は是れ我が好仇なり。悔ゆらくは、錯まって為人のロに聞きしことを、今より後、誓って舌頭を縮めん」
(私は美しい少年を貪るように見ている。まさに私の好みであり、私の相手として申し分ない。しかし、うっかりと、お前を導いてやるなどと言ってしまつた。今後は、舌を切られても黙っていよう)
中世の寺院社会では、「稚児(ちご)」と呼ばれる少年が住持していた。年齢は概ね7歳から15歳程度とされている。稚児は、寺で学問や芸事を習いながら、儀式の補佐や雑務に従事していた。将来の僧侶を見越して小僧を兼ねる時もあれば、貴族などの子弟が見習いで寺に入ることもあった。稚児の出自は、貴族から庶民まで幅広かった。
稚児は稚児髷(まげ)という特殊な日本髪を結った。長い髪を頭頂部で分け、2つの輪にして束ねた形状である。そして、化粧を施して眉墨を引き、口紅をつけた。身に纏ったのは色鮮やかな水干の衣装であった。
天台宗の高僧は男色を戒めたが…
彼らは仏事における奉仕者であると同時に、僧侶の性愛対象でもあった。なぜ男児を対象にしたのかといえば、僧侶の女犯は当局によって厳しく取り締まられていたからである。わが国の男色の歴史は長く、仏教界だけではなく貴族や武家にまで深く浸透していた。
しかし、男性同士による同性愛が公然と認められていたわけではない。男色は、仏教における不邪淫戒の破戒そのものである。
