34歳で亡くなった“親友”西田千太郎との別れ

 ただ、八雲は諸手を挙げて帝国大学講師になったわけではありません。

 セツはこう回想しています。

〈神戸から東京に参ります時に、東京には三年より我慢むつかしいと私に申しました。ヘルンはもともと東京は好みませんで、地獄のようなところだと申していました。東京を見たいというのが、私のかねての望みでした〉(『思ひ出の記』)

 そんな気構えでしたから、後になると、「あなたの見物がすみましたら田舎に参ります」とよく言ったものでした。ともあれセツに東京暮らしをさせることが、上京に際しての八雲の目的でした。かねて歌川広重の錦絵にあこがれていたセツです。江戸、東京の風情にひかれていました。

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 なによりセツは、大都市の匿名性を好んでもいました。地方では当時たいへん珍しかった外国人の妻として心ない視線にさらされることもありました。大都会ならあまり目立たずに暮らしてゆけますから。東京育ちの僕にもそれは分かります。

 帝大講師への転身を前に、出雲に帰省して夏の2カ月を過ごしています。出雲大社を再び訪ね、近くの稲佐の浜で遊びました。

 八雲は3歳にもなっていなかった一雄を海辺に連れだし、セツが「かわいそう」ととめるのも聞かず、まずは海面に浮くことを覚えさせようとしました。でも、小さな波も怖がる幼子です。八雲はいらだち、

「あなた日本男児ないですか!」

 としかりとばしたそうです。泳ぎの名人でもあり、それに日本国籍を取ってまもない八雲でしたから、日本男児の理想みたいなものを胸に抱いていたのかもしれません。

(左から)小泉八雲、一雄、セツ ©GRANGER/時事通信フォト

 ちなみに、この稲佐の浜は旧暦10月10日に、全国の八百万の神々をお迎えする地として知られています。このことから出雲地方では10月を神無月ではなく神在月と呼んでいます。現代でもこの頃の出雲は秋の行楽シーズンと重なって、とてもにぎわいます。

 そして結核を患っていた親友、西田千太郎と会えたのは、この夏が最後になりました。半年ほど後に34歳の西田は妻と4人の子を残し、他界します。

「あのような善い人です、あのような病気参ります、ですから世界むごいです」

 八雲は悲嘆に暮れました。

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