有名な逸話だが、事実だったかは何ともいえない。ともあれ父の死去の時点で悪評ぷんぷんの兄、高評価の弟という対立構図が、すでにあったことを否定できないと思われる。

また、実はこの葬儀の喪主は信長と信勝の2人だったという説もある。そうだとしたら家督継承者としての信長の立場は、実はとても脆弱(ぜいじゃく)だったといえるかもしれない。

片や自由奔放、片や常識的――現代の兄弟にもよくありそうだが、こうした場合、のちに大成するのは奔放なタイプ。織田兄弟も豊臣兄弟も、その典型だ。

ADVERTISEMENT

問題は常識的な方が奔放さを憎み、敵視してしまう場合だ。織田兄弟は弟が「俺の方が後継者にふさわしい」という自負のもと兄を憎み、兄もその憎悪に敵意で応え、悲劇へと向かっていった。

エスカレートする反逆

父の葬儀以降、信勝は信長に対し、露骨に楯突く姿勢をとった。

天文23(1554)年12月/信勝「弾正忠(だんじょうのちゅう)」を称す

信長の家系は「弾正忠家」と呼ばれる尾張国守護代の有力一族である。「弾正忠」を名乗る人物は、一族のトップを意味していた。

弘治元(1555)年6月/信長・信勝の弟、織田秀隆が誤射で死ぬ

織田秀隆が、叔父にあたる守山城主・織田信次の家臣に弓矢で誤射されて死亡するという事件が起きた。信次が川で漁に興じていたところを、たまたま秀隆が供も連れずに単騎で乗馬し通り過ぎたため、どこの誰ともわからぬ者が城主の前を下馬せずに通り過ぎるのは無礼であると、誤解されてのことだったという。

信長の気性を知る信次は、恐れ慄いて出奔。しかし、信長は単騎で行動していた秀隆にも落ち度があったとして、信次を赦した。だが信勝は勝手に軍勢を差し向け、守山城下に火を放ってしまう。明らかに信長の意を無視した行動だった。

弘治2(1556)年 時期不明/那古野城で信長の暗殺未遂が起きる

織田の筆頭家老・林秀貞と、その弟・林美作守の兄弟は、信長と不和だった。そこに目をつけた信勝は、2人を反信長陣営に引き込む。信長が那古野城を訪れたのを好機と見て、美作守が暗殺を計画した。だが、兄の秀貞が「織田家には3代にわたって恩を受けた。騙し討ちは天に背く」と、弟を説得して断念させたという。