これでは家臣たちから、なかなか信頼を得られない。家中に信長を廃して弟を担ぐ勢力が台頭するのも、止むを得なかっただろう。信長は造反者になりかねない信勝を信用せず、警戒していた。

そこで、ドラマでは描かれなかった兄弟の確執と闘争を、一歩踏み込んで解説しよう。

まず織田家の系図では、信長の父・信秀には12人の息子がいた。これはあくまで残された系図上であり、実際の人数や長幼順は今ひとつはっきりしない。その12人のうち、今回の記事の主要人物は長男・信広(推定20)、次男・信長(16)、三男・信勝(推定13〜14)の3人。信広と信長の間に、実は系図上では六男の信時(安房守秀俊)がおり信長は三男だったともいわれるか、ここではその説は省略して系図に則った。なお( )の数字は、父の信秀が死去した天文21(1552)年当時の年齢である。

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長男の信広は側室の子で、信長・信勝は正室・土田御前が産んだ。家督継承順位は、1信長、2信勝、3信広だったろうと、信長研究に詳しい歴史家の谷口克広はいう。嫡出長子(正室が最初に産んだ男子)が相続するのがあくまで基本だった戦国期において、この順位は当然だった。

「うつけ者」といわれた信長だが、父の信秀は後継者と定めていた。

しかし一抹の不安もあったのだろうか、領内の一部の権限を弟の信勝に与えていたようなのである。

兄への憎悪・弟への敵意が悲劇へ

例えば信秀存命中の天文20(1551)年、熱田社(熱田神宮)の統治権の一部が、信長から信勝に移行したことを読み取れる文書が残っているという。当時、信秀と信勝は末森城(または末盛城/名古屋市千種区にあった)に一緒に住んでおり、意思疎通も円滑だったと考えられ、この権限移行は信秀の意向が働いていた可能性はある。

それでも天文21年3月に信秀が死去すると、既定通り信長が家督を相続した。19歳だった。

だが、父の葬儀でひと悶着起きる。

「信長が焼香に立った。出で立ちは大刀と脇差を藁縄(わらなわ)で巻き、袴もはかず、抹香をかっとつかんで仏前へ投げつけた。弟信行(信勝)は肩衣(かたぎぬ)・袴を着用し礼にかなった作法であった」(『信長公記』)