そして、この記事の冒頭の「信勝粛清場面」に、話は戻るのである。
弟との対立が“信長”を生んだ
信長・信勝は、尾張統一を悲願とする有力一族・弾正忠家に生まれるという、重い荷を背負った兄弟だった。百姓出身で失うものはなく、強い上昇志向で出世を考えていた秀吉・秀長とは、担うべき責任も違っていた。
また、弾正忠家の家督継承も決してスムーズに行われたとはいい難く、信長・信勝兄弟それぞれを担ぐ家臣によって家中が二分する、複雑な事態に陥っていた。
“信長”という人間を考えたとき、天文21年の父の死去から弘治3年の信勝暗殺までの6年間は肉親・一族が血で血を洗う抗争を繰り広げた時期にあたり、しかも信長は10代後半〜20代前半で経験した。それも戦国のならいといえばその通りだが、あまりに苛烈な青年期だったはずだ。
そして弟との戦いの教訓が、その後の信長の生き方――徹底したワンマンで専制的かつ合理的、家臣に対して酷薄という、独特の組織マネジメントにつながっていったと考えられる。
そうしたスタイルを信長が築く原点こそ、弟・信勝との対立にあったのではないだろうか。
参考文献
・太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(KADOKAWA、2013年)
・日本史史料研究会監修、渡邊大門編『信長研究の最前線2』「スムーズではなかった、信長の「家督相続」の現実/千葉篤志」(洋泉社、2017年)
・谷口克広『天下人の父・織田信秀 信長は何を学び、受け継いだのか』(祥伝社、2017年)
江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表
編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。
