弘治2(1556)年 時期不明/長兄・信広に謀反の動き

信長の異母兄・信広が、美濃の斎藤義龍と連携して清洲城を乗っ取る謀反を企てたが、計画が露見して失敗。義龍は信勝とも連絡を取り合っていたことが書状によってわかっており、義龍―信勝―信広が反信長でつながっていた可能性を疑わせる。

2倍の兵数を誇った弟の軍勢に勝つ

天文23〜弘治2年前半の信勝は、兄の追い落としに必死だ。これは叔父の織田信光(弘治元年11月26日死去)や、美濃の斎藤道三(弘治2年4月20日死去)ら、信長の有力な支援者が相次いでこの世を去ったのを受けてのことだろう。つまり信長の力が弱体化した隙を突こうとしたと考えられる。なかなか狡猾だった。

しかし、一筋縄ではいかないのが信長である。

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弘治2年8月24日、ついに兄弟は決戦に挑む。稲生(いのう)の戦いである。

信勝の軍勢は柴田勝家1000、林美作守700。ただし、信勝本人は出陣せず、末森城に止まった。対する信長勢は森可成・佐久間信盛・前田利家・丹羽長秀ら、信長の親衛隊といえる精鋭が中心の700。

敵の半数にも満たない信長勢は苦戦を強いられたが、信長自らが先頭に立って戦う、気力に満ちた軍勢だった。一方の信勝勢はそもそも大将が戦線に不在のうえ、もとは主君である信長を攻めるということもあり、士気は低かった。

勢いに押され始めると柴田勝家の兵たちが逃走をはじめ、林美作守は信長自身の手によって討ち取られた。信勝軍は敗れた。

敗将の信勝は末森城に籠城したが、信長は母・土田御前の助命嘆願を聞き入れ、追い討ちをかけなかった。

その後、信勝は信長と対面し許された。林秀貞・柴田勝家らも信長に忠誠を誓った。敵対した者は容赦しないといわれる信長だが、肉親への情を持ち、また、役に立つ忠臣には寛容な態度を示す人物だったとわかる。

半面、信勝は堕ちていった。『信長公記』には戦後、津々木蔵人という者と男色に耽り始めた信勝が、周囲を蔵人の配下ばかりで固め出したと記す。側近だった柴田勝家も遠ざけられた。居場所を失った勝家は、信勝がまた謀反を企んでいると、密かに信長に報告した。