この定義による街娼は、室町時代の「立君」以降も多くの文献に記録されている。江戸時代には公認された娼——公娼が働く吉原遊廓は1617年につくられたが、その値段から高嶺の花であったことで、元禄年間(1688~1704年)の後期になると、庶民は内藤新宿、品川、板橋、千住を主とする公の許可を受けていない売春婦が多くたむろする場所――岡場所――いわゆる私娼窟で遊んだ。しかし、その私娼窟も天保の改革で潰される。そこで大繁盛したのが“夜鷹”である。

 夜鷹とは、江戸時代の街娼を指す言葉で、夜になると出てきて野外や仮小屋で売春した遊女のことだ。公娼ではないことから、また生活困窮者が多かったことからしても、下級遊女にカテゴライズされた。白粉を塗って顔をごまかし、かつ暗闇でも目立つようにして客を取っていた。

 話は終戦直後まで飛ぶが、夜鷹はそのいでたちからも、白塗りの厚化粧にフリルのついた純白のドレス姿で街角に出没して横浜の風景の一部となっていたホームレスの老女――メリーになぞらえられる。

ADVERTISEMENT

 監督の中村高寛さんによって彼女の半生を綴ったドキュメンタリー映画『ヨコハマメリー』(2006年公開)で知られる、伝説的な街娼だ。本名不詳。通称「ヨコハマメリー」。

 中村さんの著書『ヨコハマメリーかつて白化粧の老娼婦がいた』(河出書房新社)によれば、内閣総理大臣の原敬が暗殺された1921年に岡山県内で生まれたメリーは、8人兄弟の長女で、実家は農家だったという。

メリーさん(画像:映画『ヨコハマメリー』公式サイトより)

 地元の青年学校を卒業後には、国鉄(現JRグループ)職員と結ばれ、子宝には恵まれないまでも順風満帆の人生を送っていたようだ。

 しかし第2次世界大戦がはじまり、軍需工場に働きに出るようになると、人間関係を苦に海に出て自殺未遂を起こし、それが原因で結婚生活はわずか2年で破綻。終戦後は兵庫県西宮の料亭で女中奉公をしている。

 重要になるため料亭での女中生活の詳細とその後の展開はあとに記すが、関西を離れたメリーは1952年ごろ、横浜・伊勢佐木町で街娼になった。

 メリーは1995年ごろまでしばしば目撃された。だが、その年の冬に人知れず姿を消し、以降は故郷がある岡山県内の老人ホームで余生を送る。

 2005年1月17日、84歳没。心不全だった。夜鷹からメリーへ。メリーから現代の街娼へ――。一見、関連性はないように見えるこの流れが、実は地続きであることがのちにわかってくるのだ。

 ポイントは、カラダを売って暮らすことを覚えた女性たちの類似性である。

 話を戻そう。

次の記事に続く 「奥さんが、米兵に乱暴されてもよいのか」敗戦直後の日本が「アメリカ兵のための売春宿」を設置した“衝撃の歴史事情”

その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。