戦後の混乱は、街娼の流れを一気に加速させた。ドヤ街、岡場所、そして進駐軍向け慰安施設RAA――新宿に人と欲望を集めた“ハブ”の正体とは何だったのか。ヨコハマメリーの人生を軸に、「交縁」が生まれる必然の構造を、歴史の裏側からあぶり出す。

 ノンフィクションライターの高木瑞穂氏の新刊『ルポ 風俗の誕生』(清談社Publico)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む

写真はイメージ ©getty

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売春婦のたむろする戦場

 これまで記したように、松沢さんの定義による街娼は少なくとも室町時代には誕生していた。それはいまも続いていて、岡場所から私娼窟が生まれ、天保の改革で夜鷹へと変化し、いまに至ることになるだろう。

 だが、それだけでは交縁にはつながらない。大勢の人間をひとつの場所へと動かすには核になるもの、すなわちハブが必要だからだ。

 実は、このハブが、かつて岡場所だった内藤新宿――いまの新宿一・二丁目付近――であると、当初は見ていた。この地の街娼たちが何らかの理由で移動した果てに、と推測したのである。それは、大久保公園からほどよい距離に内藤新宿があることも後押しした。

 さらに明治通り・新宿交差点より東へ60メートルほど歩いた、複数のビジネスホテル――簡易宿泊所が現存する新宿四丁目あたりは、1947年までは「旭町」、その前は「南町」(現在の新宿区南町とは別)と呼ばれるドヤ街で、戦後の混乱期には「旭町のドヤ街を塒とする街娼たちがたくさんいた」という記述も散見された。

 旭町にはいかに街娼が多かったか=私娼窟であったかを『新東京百景』(冨田英三著/スポーツニッポン新聞社出版局)から引用する。

〈旧称旭町界隈は、昔流にいう木賃宿街、ヨコ文字でいうベッドハウス街であり、そこいらの街の暗ヤミの中は、売春婦のたむろする、夜ひらく戦場でもあった。〉

 ここから見て取れるのは、街娼たちがドヤ街の路上に立ち、声をかけてきた男たちと交渉しつつ、安価な連れ込み宿に引っ張り込んでいた構図である。

 首尾よく客がつけばいいが、うまく仕事にありつけない場合は、場所を変えてキャッチに励んだ女性もいたに違いない。