東京では、相澤本部長の父親である相澤秀禎(ひでよし)社長(当時)の家に下宿し、堀越高校に通いながらレッスンの日々を送る。やがてデビューが決まると、酒井を売り出すためのプロジェクトが事務所のスタッフのほか若いクリエイターも参加して立ち上げられ、検討が重ねられたという。

 このころの新人アイドルは歌を中心にテレビや雑誌で顔を売っていくのが正統な路線であった。だが、酒井はコンテストで落選したこともあり、前例のない形で売り出そうということになる。1986年に入ってドラマ『春風一番!』(日本テレビ系)やプロレスラーのジャイアント馬場と共演した菓子のCMなどで修業を積んだのち、同年11月、ビクターのVHDという新規格のビデオディスクソフトとして発売された映像作品『YUPPIE』で本格デビューを果たす。

世に広まった「のりピー語」

 先述の語尾にピーをつける言葉は、酒井がテレビなどに出演するたび使い、「のりピー語」として世に広まった。最初のうちは、彼女がファンクラブの会報でファンとのあいだだけで通じる言葉として使っていたのが、しだいにファンからも募集したりするうち複雑になり、「マンモスラッチー」(とてもうれしいという意味)などの造語も生まれた。会報では、彼女が中学時代からノートに落書きしていた「のりピーちゃん」というキャラクターも登場し、やがて少女マンガ雑誌で四コママンガを連載したり、オリジナルグッズとしてタレントショップで売り出したりとさまざまな展開を見せた。

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 1987年2月にはシングル「男のコになりたい」で歌手デビューし、年末の音楽賞シーズンには同期の立花理佐と新人賞を争った。同年11月リリースの4thシングル「夢冒険」はNHKの『アニメ三銃士』の主題歌で、翌春のセンバツ高校野球の開会式の行進曲にも採用された。テレビではベストテン番組が全盛で、毎週ランキングに一喜一憂した。ランクインせず出演できないとわかると、悔しくて泣いていたという。

デビューシングル「男のコになりたい」(1987年)

自分という個性がわからなかった

 1988年には企画物としてリリースされた『のりピー音頭』がヒットし、全国各地の盆踊りでも流れた。このほか「渚のファンタシィ」(1987年)や「GUANBARE」(1988年)など一風変わったタイトルの曲も多かったことからも、王道からはやや外れたひとひねりした路線で売り出されたことがうかがえる。酒井自身も表舞台では、風変わりな言葉を使い、きゃぴきゃぴした女の子「のりピー」として振る舞った。しかし彼女のなかでは、自分の個性というものがわからないまま、のりピーというキャラクターが自分のイメージとして独り歩きしているとしだいに感じ始め、悩むようになったという。

 楽曲については、シンガーソングライターの尾崎亜美が提供した「Love Letter」(1989年)以降、等身大の曲が増えてきた。とりわけ酒井の心を動かしたのが、1990年7月リリースのアルバムの表題曲「ホワイト・ガール」と、翌月リリースのシングル「微笑みを見つけた」だ。後者には「そのままでいいんだ」などといったフレーズが織り込まれており、彼女は《無理に背伸びをしなくても、そのままの自分にできることを思いっきり楽しみながらやってみたらいいんじゃないかと》目が覚め、それからというもの、《のりピーというキャラクターを演じることも、遊ぶつもりで思いっきり楽しめばいい》と気持ちを切り替えられたという(前掲、『贖罪』)。