性暴力サバイバーとしての発信
『Black Box Diaries』を、ジャーナリズムやドキュメンタリーの観点から見るべきなのか、それとも性暴力サバイバーの作った映画と見るべきなのか。この問題は簡単に決着がつかないだろう。ただ、だからといって、この映画が提起する多面的な問題を論じないのはどうだろうか。日本公開版では、代理人弁護士が指摘した箇所は一部修正されたが、あまり変わっていない箇所もある。一方で、サバイバーとしての伊藤氏の側面に注目して見ていくなら、確かに、この映画が「約450時間にわたって、自分のトラウマが記録された映像」(監督ステートメント)の集約であることが、明確に伝わってくる。
性暴力サバイバーが作った映画として見た場合、私が気になるのは、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ伊藤氏の様子を生々しく描いているということではない。むしろ、PTSDに苦しみながら、伊藤氏が捜査や裁判に臨み映画を作っていたことを、気にする人が少ないことだ。たとえば、もしPTSDから回復できていたら、伊藤氏が家族に向けて遺書のようなメッセージを録画するシーンはなかったのではないか。しかしこの点は素通りされている。そこから浮かび上がってくるのは、伊藤氏のようにPTSDを抱えながら暮らしている性暴力サバイバーがたくさんいるのに、その深刻さに気づく人があまりいないということでもある。
被害者の心の傷を考慮しているか
性暴力を被害者の側から取り上げる際、よく問題にされるのは、司法手続きの中で被害者が受ける二次加害や社会における誹謗中傷だ。一方で被害者がPTSDを発症し、どれだけ大変な思いをしているか触れることはあっても、その先に話が進むことは少ない。PTSDの発症と治療は社会問題として取り組むべきことではなく、まるで被害者が自己責任で何とかしなければならない領域のように扱われてこなかっただろうか。
それは、トラウマやPTSDについてのリテラシーが低く、被害者らが適切な心理支援を受ける機会が極めて限られている日本社会の現状を映し出してもいる。言い換えると、性暴力被害者については司法の場での救済が図られるだけでなく、トラウマやPTSDから回復して日常生活に戻るための公的支援が必要であるのに、この点については十分光が当たっているとは言えない。