私が金子文子に心を掴まれてしまったのは、1997年頃、彼女の自伝『何が私をこうさせたか』を読んだのがきっかけです。文子は無籍者として育ち、学校にも行けず、周りの大人や社会からまるで存在しないかのような扱いを受けました。その怒りが、たった一人でも国家や権力に反逆する思想を生み出したのです。

©旦々舎

毎晩包丁を抱いて寝ていた下積み時代

 その境遇は、映画監督を目指して東京に出てきた私自身の経験と重なりました。71年、23歳でピンク映画で監督デビューしましたが、当時は監督になるための就職条件が「大卒男子」。高卒女子の私には、門が固く閉ざされていました。

 ピンク映画の撮影現場には女優さん以外に女性はいません。セクハラやパワハラという言葉すらない時代で、酔っぱらったスタッフに襲われないよう毎晩包丁を抱いて寝ていました。前代未聞の若い女の助監督なんて、格好のおもちゃにされるか、拒否されるかの扱いでした。

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浜野佐知監督

 それでも私は、男の性的妄想に満ちたピンク映画の世界で「女の性を女の手に取り戻す」をテーマに、作品を作り続けてきました。35歳で会社を立ち上げ、監督・プロデューサーとして300本近い映画を撮りました。それなのに、97年の東京国際女性映画祭~カネボウ国際女性映画週間~の公式記者会見で「日本の女性監督で長編劇映画を最も多く撮ったのは、田中絹代監督の6本です」と発表があったのです。

 私は300本撮っているのに、ピンク映画だからカウントされない。30年近く闘ってきても存在を認められない。この絶望感は、金子文子の怒りや絶望と、そっくり重なりました。

敵対していた女性たちも心を引き寄せられていく

 いつか彼女を映画にしたいという思いはずっとありましたが、決定的なきっかけは韓国で製作された映画『金子文子と朴烈』(17年)でした。19年に日本で公開された映画を観て、私は心底腹が立ちました。そこに描かれていたのは、朴烈に惚れ抜いて、彼と共に死ぬことを望む可愛い女性でした。自分の意志も思想もない。違う、金子文子はそんな女じゃない!

©旦々舎

 私は、腹をくくりました。私の魂が共鳴した「私の金子文子」を撮ろう。たえず朴烈とセットで語られる文子ではなく、一人の自立した人間として、その思想を描く。脚本家と相談し、文子が大審院で死刑判決を受けてから自死するまでを描くことにしました。しかし、その時期の資料はほとんど残っていません。脚本家が予審調書や裁判記録を調べ、文子が語った言葉を拾い上げていきました。