66歳で終戦を迎え、事業再起動
そんな中、海軍から航空食用としてビタミンP入りのウイスキーを作るよう命じられた。現場が苦心して作り上げた試作品を一口飲むと、信治郎は顔をしかめてこう言った。「ウイスキーは、薬やないで。楽しんで飲んでもらうもんや。こんなもん出したら、商人の恥や」。そのウイスキーはとうとう納入しなかった。軍命に逆らってでも本物を守る。信治郎は商人である前に、いい製品を作りたいという一念に燃えた職人だった。
昭和20年(1945年)3月、大阪大空襲で本社が全焼。4月には大阪工場も設備の大半を失った。比叡山の熱心な信者だった信治郎は「うちの工場には、爆弾なんか落ちまへんわ」と信じていたが、現実は厳しかった。しかし山崎蒸溜所だけは守り抜いた。
終戦の日、海軍命令で計画していた臼杵工場の地鎮祭が行われていた。祝いの酒を飲み始めたところで玉音放送が始まった。多くの国民が敗戦のショックに打ちのめされる中、66歳の信治郎は逆に動き出した。会社組織を解体・再編し、米軍の先遣隊が大阪に進駐すると司令部に乗り込んでウイスキーの取引を持ちかけた。「日本はきっと復興する」と信じていたのである。
サントリーのウイスキーが定着
戦後、「安くてもしっかりした品質のお酒を」との思いから昭和21年(1946年)に「トリスウイスキー」を発売。高度経済成長期には「トリスバー」が全国に広がった。昭和25年(1950年)には「サントリーオールド」、昭和35年(1960年)には最高級品「サントリーローヤル」を発売し、日本にウイスキー文化を根付かせた。
昭和36年(1961年)、82歳で会長に退いた信治郎のもとに、次男・佐治敬三がビール事業への進出を相談に訪れた。信治郎は「人生はとどのつまり賭けや。やってみなはれ」と申し渡したという。この「やってみなはれ」は信治郎の姿勢を象徴する言葉として広く知られるが、必ずしも同時代の史料に頻出する言葉ではなく、後世の企業広報によって象徴化された側面もある。しかし、国産ウイスキー製造という前人未到の事業に踏み出した信治郎の判断は、まさにこの精神を体現するものだった。