対して、熊本ではほとんど無視である。
例えば新聞が、そうだ。ドラマでは騒動の発端になったが、史実の『山陰新聞』も、八雲が松江に到着した日から、去る日までとにかく事細かに、プライバシーにも踏み込むような記事を繰り返して書いている。
ところが、熊本はどうか。当時の熊本の有力紙である『九州日日新聞』(現在の熊本日日新聞)には、ほとんど八雲が登場しない。
この新聞での八雲の最初の登場は1892年1月5日付の紙面。これは前日に開かれた偕行社(陸軍の親睦組織)での宴会を報じるもの。ここでは、常に日本服を身にまとう日本びいき外国人である八雲に皆の注目が集まっていたことが書かれている。
到着したのは11月なのに、報じられたのは1月になってから、ここに松江と熊本との温度差は明らかだ。以降も、3年間の滞在中に八雲が『九州日日新聞』に登場することは極めて少ない。
“外国人”に向けられた冷たい視線
紙面を精査した八雲研究者の広瀬朝光は、こう記している。
当時の『九州日日新聞』を読むと、宣教師が教会を建てるために土地を購入するのを著しく非難攻撃し、土地を売ろうとする日本人を売国奴呼ばわりし、宣教師を即スパイと決めつけている。外国人が日本人妻を娶り街を散歩する様子を見て、日本人女性を姦淫し風紀を乱す毛唐連は、速やかに放逐すべしと新聞に論ずる時代でもあり、この風潮は熊本高等中学校の御雇外国人である、ヘルンにも、その矛先が何時向けられるのかわからない情勢であった。
ようは八雲が「『古事記』に描かれた日本神話の神秘が残る土地かあ」と期待して来てみれば、熊本は多くの人々が「この毛唐が、日本の女ば取りやがって、叩き出せ」とヘイトを向けてくるとんでもない魔境だったわけである。
……これは、熊本到着3カ月後からソフトランディングさせないと、朝の連続テレビ小説に似合わない。
そんな八雲の更なる不幸は、西田千太郎がいなかったことに尽きる。
松江での西田は、八雲にとって単なる通訳ではなかった。自らも英語を学び、八雲の学識を尊敬し、怪談採集にも民俗調査にも献身的に協力した。研究助手であり、理解者であり、友人だった。