と言うのも、この舞台で描かれる一心の、そして関わる人たちの半生は時系列には並んでおらず、物語は時と場所を移しながら進んでいくのだ。当然その時々に一心が置かれている立場も境遇も異なれば、中国という国のかたち、日中の関係も大きく動いている。

 登場人物たちの対話は日本語で展開されるが、不思議と彼らが中国語で話しているということがすんなり理解できる。しかも一心と玉花の記憶の底にこびりついた、はじめ意味をなさないカタコトに聞こえる三つの単語だけは、日本語なのだときちんと区別がつく、舞台と客席が共有する演劇の想像力は驚異的だ。

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 その理由のひとつには、語り部としての玉花が、また時には一心が客席に語り掛ける状況説明の台詞が、巧みにインサートされていくことがあるだろう。だがただそれだけではなく、目まぐるしく変わる一心の境遇のなかで、育ての両親、のちの妻、探し続けた妹、そして日本の実の父。彼らをめぐる大きなドラマが、ひとつ、またひとつと提示されることで、記憶はより鮮やかになり、苛烈な時代を生き抜いた人々の生き様がパズルのピースがハマるようにつながっていく。その先に迎えるのが、原作とも、ドラマ版とも異なる視点を持った終幕で、そこに至った時には、ただ息を飲んだ。

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いま何故『大地の子』を舞台化するのか

 思えば原作世界のなかの現在は「1985年」だった。そこから2026年のいまに至るまでに40年以上の時が流れている。その40年の時を経て振り返るからこそ見えるもの。国家同士が争うことが、個人の人生を如何に容赦なく翻弄したのか。ともすれば忘れ去られようとしているそのことを、現代に、「記憶」としてとどめ、過去に学び、未来に生かすべきだとの信念と祈りが、栗山演出の幕の切り方に込められていた。

 いま何故『大地の子』を舞台化するのか。その答えのすべてが、2026年のいまに問う『大地の子』がここにはあった。もちろん見え方も、受け止め方も人それぞれに違いない。だからこそ一人でも多くの人に、この終幕を受け取り記憶して欲しい。導かれる答えがどんなに異なっていても、すべてはそこからはじまると、この舞台の終幕は告げている。