なので、大学生の間はバイトして貯めたお金で楽器を買ったり、ライブをしたりしてました。大きな夢を抱えながら、ワシントンD.Cの中でも治安の悪い地区で歌ってましたよ。

――その頃から迷うことなく、音楽への道を歩み始めたんですね。

 いやいや。迷いはめっちゃありましたよ。歌手の絢香とはデビューしたタイミングが一緒で、今も仲良しなんですが、彼女みたいに唯一無二の声を持っていたら迷いなんて持たなかったと思うんです。彼女にも「あんたみたいに歌がうまかったら、私の人生変わっとったわ!」って言ってるくらい。

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 私みたいなシンガーソングライターはごまんといたし、自分が特別な才能を持っているなんて思えなかった。親も音楽活動に否定的だったので、このまま続けていいのだろうかという葛藤は常にありました。なので、大学を卒業してから、一度アメリカで就職してるんですよ。

「漢字が読めない…」帰国して再びカルチャーショック

――その後、アメリカではなく日本でデビューすることになります。どのようなきっかけがあったのでしょうか?

 15歳から25歳という、人格が形成される時期をアメリカで過ごしているので、もちろんアメリカでデビューしたいと思ってました。曲も英語で作っていましたし。そんな中、ひょんなことから、ヤクルトのCM音楽を作る話が舞い込んできたんです。ジミー・スコットという世界的に知られるジャズシンガーが歌う、楽曲を作る企画に応募したら見事受かりまして。

 ジミー・スコットってマドンナが「私を感涙させた、唯一の歌手」と賛辞を送っているくらいすごい人なんです。そんな人に自分が作った曲を歌ってもらえて、一緒にレコーディングも出来た。それはもう最高な経験でした。その際に作ったデモテープを、今でもずっとマネージャーをしてくれている方が聞いてくれて、日本に呼んでくれたんです。

 当時は今のようにYouTubeやSNSのように自分から発信出来る時代ではないし、誰かに会わないとデビューはできない。それにエージェンシーにも入っていなかったし、マネージャーもいなかったので自分の音楽をいいと言ってくれる人のもとでデビューするのが、一番近道だろうと。それで割り切って日本に帰ってくることになったんです。