熊狩りの猟師が犠牲に 餌食となった人間たち
母親の遺体が見つかった日、この惨劇は瞬く間に、沼田町全域に知れ渡った。翌23日、近隣の雨竜村(現・雨竜町)にある伏古コタン(アイヌの集落)から、熊撃ち名人と称されるアイヌを含む猟師3人が応援に駆けつけた。そのうちのひとりは憤慨のあまり、「そんな悪いクマは、自分が仕留める」と、周囲の制止も振り切って、単独で山中へと入っていった。その後、数発の銃声が響いたが、それっきり行方不明となる。
翌24日、事態を重く見、在郷軍人や近隣の青年団などが応援に駆けつけた。近隣の集落の60歳未満の男子が残らず参加するという、村始まって以来の、総勢300人以上からなる討伐隊が組織されたのである。
この討伐隊が山中を進むと、ほどなくしてヒグマが現れた。最後尾にいた50代の男性を撲殺。別の男性にも重傷を負わせ、他の討伐隊メンバーに襲い掛かろうとした矢先、鉄砲隊の一斉射撃を浴び、とうとう凶悪なヒグマは射殺された。
ヒグマが殺された現場近くからは、23日に行方不明となっていた猟師の遺体が発見された。銃は折られ、頭部だけを残して、全身が食い尽くされた、惨憺たる状態であった。
死者4名、重傷者4名。しかも死者の多くがヒグマに食われるという、実に無惨な事件であった。4人の人間を屠ほふったヒグマは、体長2m、体重340kgとされる。死後に解体されたクマの胃の中からは、大きなザルいっぱいにもなる大量の人骨と、未消化の人の指が出てきたという。
その後、ヒグマの毛皮は、沼田町立幌新小学校に保存されたが、廃校になったのちは、幌新会館に移され、現在は沼田町ふるさと資料館分館に展示され、その惨劇の記憶を伝えている。
