「国家像の第一の規準を、金銭的ゆたかさに求めることは果たして正しいのでしょうか。競争原理の徹底したアメリカは、結果的に国内で巨万の富を持つ者と、正規雇用を失う貧しい者を生んだ。問題は、この金銭上の勝ち負けが…」
戦後を卒業できないまま、令和まで来てしまった日本。国内外のあらゆる分野で権威が解体し、世界秩序が激変している。そんな危機的状況をどう乗り越えるのか。
落合陽一氏と先崎彰容氏が「新時代の倫理」について徹底議論した新刊『令和日本をデザインする』(文春新書)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/続きを読む)
◆◆◆
数字が「第一の価値基準」に
先崎彰容(以下、先崎) YouTubeにおいて、再生回数という価値基準に立つ限り、私の発言は、タレントの気の利いた政治談議にまったくかないません。大学卒業以来の30年の読書勉強など、まったく通用しないのです。この事実を、私は保守おやじとして、怒っているのではない(笑)。
問題は、数字という基準が、社会を論じる際の「第一の価値基準」に躍りでたことで、何をわれわれが失っているかを知ってほしいのです。
官僚と外資系・起業家の例に顕著なのですが、年収=数字を第一の評価規準にすれば、官僚は起業家の収入の3分の1にも満たないでしょう。ではなぜ、今まで官僚は最高の職業とみなされてきたのか。それは、金銭的数字以外の価値を、身に帯びていたからです。
たとえ30歳で年収が500万にすぎないとしても、日韓首脳会談の緊迫した場面に、自分が参加できている手ごたえがあった。この「手ごたえ」こそ、数字化できない「もう一つの価値」なのです。
YouTubeと知識人の関係に話を戻せば、再生回数という数字を目指すかぎり、30年も貧乏暮らしをして知識を錬磨する必要などない。もっと手っ取り早く金を生みだす方法があるけれど、あえてそれにのらない。この矜持をもちつづけることが、きわめて難しい時代になっているんだ。
「知識人」の「権威」など、溶解してしまっている。溶解という点が非常に大事なのであって、令和は「権威」にたいし、反権力を振りかざして壊す時代ではない。むしろ勝手に溶けてゆくんです。
その点、落合さんは、きわめて特異かつ例外的な存在ですよね。ご自身の専門に加えて、あらゆるところに目配りが利いている。ご著書の『忘れる読書』(PHP新書)に、私はあたらしい知識人像をみた思いがしました。
今回の対談が始まる前の雑談でも、高山樗牛という、極めてマイナーな明治時代の思想家について話をされていた。私が以前、誰も読まないことを承知で書いた『高山樗牛』(論創社)や長尾宗典先生のご著作を読んでくれていたわけです。
