落合陽一(以下、落合) 2019年に『質量への憧憬』という個展を開いたんです。「憧憬」という言葉について議論している専門的な本ってあるのかなと思ったときに、長尾宗典さんの『〈憧憬〉の明治精神史 高山樗牛・姉崎嘲風の時代』(ぺりかん社)に出合って。
高山樗牛と姉崎嘲風はドイツ語の「ゼーンズフト」を憧憬と訳したと考えられるんですが、19世紀後半の段階でこの言葉を文学的にきちんと理解していたのは誰なんだろうっていう関心が僕の中で生まれたりもして。メディアアートの個展を開くときに、ちゃんと言葉選びをして、参照すべき文献に当たるっていうことは、いちおう似非インテリとしてはよくやるんですけど。
先崎 それができれば、本物の「知識人」ですよ。近代日本における、「知識人」のもう一つの定義として、西洋文明をどう受容したのかという大問題があるわけです。現在、私たちが使っている日本語とそれに付随する文化現象には、西洋=近代のインパクトにどう対応してきたのかという、先人たちの血肉が刻まれているのだと思います。
今、落合さんが注目した「憧憬」という言葉に関して言うと、多分にロマン主義的な響きを持っている。ゲーテ以降の時代を生きた、シュレーゲルなどのドイツ・ロマン主義者たちの文学・芸術論が日本人にも影響を与えているんです。その最初が、明治期の樗牛などですね。
「金銭的ゆたかさ」に軸足を置いた日米のその後
先崎 ところで、私が「夜店」として、『国家の尊厳』『知性の復権』などの新書を書き、日本が直面する問題についてあれこれ語っているのも、わが国のアイデンティティ、つまり「自分らしさ」が危機に瀕していると考えているからです。
1945年の敗戦以降、戦後日本のアイデンティティは、自由と民主主義(政治)、資本主義による成長(経済)、日米同盟(外交)によって形づくられてきた。
この大前提は、日本自身が主人公となって形成した戦後秩序ではなく、米ソ冷戦時代の国際情勢を基盤として生みだされてきた、いわば他律的な世界観です。冷戦が崩壊した1990年代、湾岸戦争などが起きた際にも、日本人はしきりに世界情勢の変化を訴え、日本国内も改革すべきだという議論がありました。日本も「普通の国」になるべきだとして、自衛隊の海外派遣も行われるようになった。
ただ、私が問題だと思うのは、この「普通の国」論をふまえて、日本が国家像として選択したのは、アメリカ中心の新自由主義的発想だったことです。レーガニズムとも呼ばれる、アメリカ保守主義の特徴──徹底した規制緩和・市場原理主義・小さな政府・個人主義──を国家像のモデルとして導入していった。
たとえば小さな政府とは、政府の介入を極力ひかえて、市場の競争主義を尊重することです。競争の結果、あたらしい発想からあたらしい市場が生まれ、あたらしい雇用が生まれる。経済成長の起爆剤となる。ここでもまた、経済成長を第一の価値基準にすえて国家像をつくった。つまり、日本人は金をもっと稼ぎ、「金銭的ゆたかさ」を生きる価値にしたということです。
しかし少し考えてもらうとわかると思いますが、国家像の第一の規準を、金銭的ゆたかさに求めることは果たして正しいのでしょうか。競争原理の徹底したアメリカは、結果的に国内で巨万の富を持つ者と、正規雇用を失う貧しい者を生んだ。
問題は、この金銭上の勝ち負けが、アメリカ社会の人間関係を壊し、生活のリズムを激変させ、個人のいきがいの喪失や精神的荒廃をもたらしたことです。この時、アメリカの国家像は、経済以外の何もかも失い分裂破綻していった。そして日本もまた、それに追従したのが、2000年代の四半世紀だったわけです。
私は経済成長を否定していません。そうではなく、第一の価値基準にすべきではないと言っているのです。実際、モデルにしたはずのアメリカ自身が悲鳴をあげ、トランプ2.0の時代を、今、目の前に見ているではありませんか。
落合 だからといって、アメリカに代わるモデルもない。
