藤井が誤る気配はまったくなかった
「もう少ししたら、藤井七段の勝ちで終わります」
ある関係者がそう断言して、報道陣に終局後に備えた準備をうながした。これは親切なアドバイスだ。将棋会館を訪れている取材者の全てが、将棋に詳しいというわけではない。
とはいえ、将棋は逆転のゲームである。九分九厘、勝敗が決したと思われる局面から、まさかの大逆転劇が演じられることは、それこそ日常茶飯事である。将棋は何が起こるかわからない。最後の最後まで、何が起こるかわからない。
しかしながら、本局に限っていえば、藤井が誤る気配はまったくなかった。里見の終盤力をもってしても、届かないほどの差がついていた。
82手目。藤井は角で王手をかける。里見の玉に詰みはない。しかし、勝ちがないのは明らかだ。
12時21分。里見が潔く投了を告げ、対局は終わった。報道陣が再び対局室に姿を現す。
里見は少し、残念そうな表情だった
「(序盤は)不利な状況になってしまったので、少し失敗気味かなと思っていたんですけど、その後、中盤以降は立て直すことができたかな、という気がします」
終局後のインタビューで、藤井はいつもどおり、しっかりとした受け答えをしていた。
「(藤井七段と)対戦するのはすごく楽しみにしていました。中終盤で間違えてしまったのが、ちょっと悔やまれます」
里見は少し、残念そうな表情だった。
やがて感想戦が始まると、少しずつ両者の顔に笑みが漏れ始める。その瞬間を逃すまいと、カメラのシャッター音が大きく響く。
そのうち、対局室に杉本昌隆七段が姿を見せた。両対局者が最小限の言葉をかわし、駒を動かすのを、じっと見つめていた。
男性棋士を相手に今期4勝目をあげた
週明けの8月27日、月曜日。里見は王座戦1次予選で、浦野真彦八段と対戦した。夜にまで及ぶ大熱戦を制したのは、里見だった。藤井には敗れたが、男性棋士を相手に、これで今期4勝目をあげた。
女流棋士とアマチュアは、棋士を相手に、10勝かつ勝率6割5分以上の成績を収めることができれば、編入試験を受験する権利を得る。この狭き門をくぐって、棋士となった例は、今泉健司四段、ただ一人しかいない。
今泉は元奨励会三段。里見と同様、年齢制限で奨励会を去った。その後も何度も挫折を繰り返した。しかしあきらめることなく、ついに41歳で夢を叶えている。
今年のNHK杯1回戦において、今泉は藤井と対戦した。当時15歳の大天才と、45歳の苦労人。何もかもが対照的な二人の対戦は、当然ながら、「藤井乗り」の声が圧倒的だった。
しかし、将棋は何が起こるかわからない。
今泉は敗勢の局面を、歯をくいしばって耐え続ける。将棋は最後に間違えた方が負ける。正確無比の終盤力で知られる藤井は、まさかの失策をおかした。そして最後は大逆転。オールドルーキーの今泉が、劇的な勝利を収めている。
繰り返しとなるが、里見は女流棋界の第一人者である。この先、たとえ編入試験を受けるだけの成績をあげられず、また棋士にならずとも、女流棋士としての輝きは、いささかも曇るわけではない。
しかし、なおそうであっても――。
里見の肩には、女性、男性を問わず、多くの将棋ファンの期待がかかっている。それは里見が一度は夢破れ、奨励会を退会した現在であっても、いささかも変わらない。