〈女流棋士の第一人者、里見香奈が初の「女性棋士」を期待される理由〉から続く
2018年8月24日、金曜日。台風が去って、前夜までの激しい暴風雨が収まった大阪は、蒸し暑い天気だった。
第90期ヒューリック杯棋聖戦1次予選、藤井聡太七段-里見香奈女流四冠戦は、関西将棋会館4階の「水無瀬の間」でおこなわれた。
16歳という年齢は、いまだに将棋界最年少だが
訪れた報道陣は、24社48人。一連の藤井ブームは、2017年6月から7月の連勝記録更新前後、2018年1月から2月の朝日杯本戦、藤井優勝という2つの大きな頂点があった。藤井-里見戦の報道陣の数は、それらに次ぐものであろう。それはもちろん、常に注目される藤井の対局というばかりではなく、男性棋士を相手に健闘している里見香奈が登場するからだ。
9時40分。まずは藤井が対局室に登場し、上座に座る。昨年の今頃は四段だった藤井は、現在は七段。16歳という年齢は、いまだに将棋界最年少だが、序列的にはすでに、中堅の位置までジャンプアップしている。
藤井は最初から、スーツのジャケットは着ていない。紺のスラックス、白いワイシャツに、ネクタイは紺と薄い青のチェック柄。手にしている黒いデイパックのブランドは、吉田カバンのPORTER。高校1年の藤井にとっては、現在は夏休みの終盤にあたる。
9時46分。続いて里見が入室。グレーに淡く青い格子の入ったパンツスーツ姿。下座について、一礼をした。
「世間はどちらの応援をするのだろう」
両者の撮影をしながら、筆者はそんなことを思った。現代日本の天才の象徴ともなった藤井は、圧倒的な声援を背にして戦っている。藤井の一局一局はすべて、将棋界の頂点に至る道そのものである。
「できることなら、どちらにも勝ってほしい」
一方で里見は、現代女性の代表の一人ともいえる。男性棋士を相手に編入試験を受けられるだけの好成績をあげ、もう一度棋士を目指してもらいたい。そう願っているファンも多いだろう。
「できることなら、どちらにも勝ってほしい」
将棋ファンはしばしば、そんな矛盾した願いを抱く。筆者もまた、そうだった。
駒袋のひもを解き、盤上に駒を置いた藤井が、一礼をして「王将」を取り、所定の位置に置く。上位者が「王将」を持つのが将棋界の慣習である。続いて里見が「玉将」を手にして、同じ動作をする。
2年前の三段リーグでの対局では、おそらく里見が「王将」を持っていたことだろう。
互いに20枚ずつ駒を並べ終わった後、記録係が藤井側の歩を5枚手にして、振り駒をおこなう。畳の上には、「歩」が1枚、「と」が3枚、あともう1枚はまっすぐ立ち、下位者の里見が先手と決まった。
対局開始の時刻を待つ。里見はずっと、自身を扇子であおいでいた。首筋や頬にはうっすらと、汗が流れているのが見えた。
里見が手にしていた扇子には「不撓不屈」(ふとうふくつ)と揮毫されていた。それを書いたのは他でもない、藤井の師匠である、杉本昌隆七段である。何かしらの意図を持ったものであろうと報道陣は思いをめぐらせた。しかし、局後のインタビューによれば、たまたま鞄の中に入っていた扇子が、杉本七段のものであったという。
将棋界の師弟の関係は独特なものだ。盤上の指し方という点において、弟子が師匠の得意とする作戦、戦形を真似るとは限らない。振り飛車党の杉本と、居飛車党の藤井とでは、対極的と言ってもいい。
戦形の採用という点で杉本と似ているのはむしろ、里見である。里見は幼い頃から現在に至るまでずっと、中飛車一筋で通してきた。杉本の扇子もこの日初めて使ったわけではなく、以前から愛用していたものだ。