――それでそのまま定着してしまった?
松本 そうなんです。しかもあれが謹慎後初の生放送復帰でした。高田先生はとにかく何でも詳しいうえに、あのとおり早口ですから、最初は相槌を打つのもたいへんでした。先生の呼吸を見ながら、息を吸った瞬間に相槌を打つ、みたいな感じ。ハガキ職人の送ってくれたネタを読むんですけど、漢字が読めなくて怒られてばっかでした。先生に「余計なこと言うなよ」ってイジられながら、週に5日間のアシスタント。高田先生に拾われたというか、本当に鍛えられましたね。
――同じ時期に「ものまね王座決定戦」で優勝していますね。
松本 優勝はさせてもらいましたけど、当時はものまね四天王がいましたから私とか松ちゃん(松村邦洋)は普段は1回戦で負けるイロモノ的な扱いでした。楽屋でもたくさん出演者がいるなかで顔を知っているのが松ちゃんだけだったから、いつも2人で隅っこでお弁当食べたり、慰め合ったりしてました。
――後の電波少年コンビですね。
松本 そのかわいそうな“松松コンビ”を覚えていてくれたスタッフさんがいたようで、急に日本テレビの土屋敏男プロデューサー(当時)に松松コンビが呼ばれたんです。もともとはウッチャンナンチャンさんとダウンタウンさんが「笑撃的電影箱」という番組をやっていたんですけど、ウッチャンナンチャンさんが映画(『七人のおたく』1992年公開)を撮ることになったので、3カ月だけのつなぎ番組として「電波少年」をやるから、出て欲しいと。
――では、最初はとくにプレッシャーもなく?
松本 3カ月で終わると思ってましたからね。ただ土屋さんに言われたことを忠実に守る、というだけでした。でも、松ちゃんが「渋谷のチーマーを更生させたい!」とか、危険なアポなし突撃ロケをやっているうちに視聴率がすごいことになって、結局3カ月という約束が10年になってしまいました。
「松ちゃんがイジめられればイジめられるほど視聴率が伸びる、っていう手応えが(笑)」
――どのへんで手応えを感じましたか?
松本 松ちゃんがイジめられればイジめられるほど視聴率が伸びる、っていう手応えがまずありました(笑)。それに負けないように、とにかく無茶ぶりを全力でやるのに必死でした。
――「電波少年」の時期にメインの番組が次々に始まって、“干された”時期は完全に抜け出した印象があります。
松本 同じ頃に「DAISUKI!」も始まりました。秀ちゃん(中山秀征)と飯島直子ちゃんと一緒にやらせてもらったんですけど、秀ちゃんとは10代の頃から「いつか一緒にレギュラー番組やりたいね」って話していたからうれしかったですね。あとは「TVチャンピオン」。この3つのバラエティ番組のレギュラーが決まったのが26歳ぐらいの時です。松本明子の全盛期でございますよ。

