彼は部屋の壁に糞尿を…
その日の午後、私は持病の腰痛の問診を受けるため、医務室に呼ばれた。
プリズンでは、医務室の待合室さえも、中の人同士で顔を合わせることができないよう、木の板で仕切られている。隣のスペースに誰がいるのかわからず、声だけが聴こえてくる。私より先に呼ばれた人と医師との会話が聴こえてきた。今日の医師は女性のようだ。
「あなたは今朝、部屋の壁に、その……糞尿を塗りたくっていたの?」
私は目を見ひらいた。糞尿を塗りたくる? 今朝のあの青年だろうか。少しの沈黙の後、若い男の声がした。
「僕じゃありません」
この答え方は、やはり今朝の青年だ。看守が「くさい」と言っていたのは、糞尿だったのか。だとすれば、看守のあの剣幕もうなずけた。だけど、と私は思った。糞尿を独房の壁に塗りつけるなんて、住みにくくなるだけで、自分で自分の首を絞めるようなものだ。
「でも、職員の報告によると、昨日の就寝前には、あなたの部屋の壁には異常はなかったそうなの。それが、今朝になったら、あなたの部屋の壁には、糞尿が塗りたくられていたんですって。そうすると、あなたなんじゃないかしら」
「僕じゃありません」
「うーん、そう……」
プリズンの環境が精神を追いこむ
漏れ聴こえてくるやり取りに、私の耳は釘づけになっていた。独房は基本的に密室なのだから、理屈からすれば、塗りたくりの犯人は青年しかいない。
けれど、部屋の壁に自分の糞尿を塗りたくるなんて、正気の沙汰ではない。しかも、それでも「僕じゃありません」と否認を続ける態度も、常軌を逸しているように見えた。
深夜の徘徊、今回の糞尿塗りつけ、そして自分の仕業ではないと言いつづけること。その奇矯なふるまいは、精神に不調を抱えていることの表れのように思える。
けれど同時に、それは彼個人の素因そのものでなく、プリズンの閉鎖的な環境によって増幅された結果ではないかと感じられた。
人との会話も陽の光も乏しく、出口の見えない勾留生活のもとでは、ただでさえ人の精神は追いこまれてゆく。仮にそこに、もともと精神的な不調の素因を抱えていたなら、なおさらのことだ。
数日後、青年は別の棟へ移され、それきりその姿を見なかった。
