『釣り侍』(佐藤賢一 著)

 西洋史を題材にした歴史小説を中心に発表している佐藤賢一の新作は、初の時代小説である。

 タイトル通り、和竿を使った黒鯛釣り、山形県鶴岡市にある大鳥池に棲むとされる未確認生物と同じ名の滝太郎との勝負など釣りが物語を牽引しており、そのリアリティと緊迫感には思わず引き込まれるだろう。

 羽州大泉藩では、釣りが武芸として奨励されていた。藩士の前原又左衛門と竹馬の友の山上藤兵衛は、磯場へ黒鯛釣りに行き藩主の転落死に遭遇する。藩内では次期藩主をめぐり、前藩主の嫡男・万千代を推す用人の川村太右衛門ら家老派と、異母弟の鉄之介を推す中老派が対立。又左衛門の娘・紗世と、藤兵衛の息子で若いが藩校で助教をしている弁四郎の結婚話が進むなか、二人は家老派と中老派に分かれてしまう。

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 藩の派閥抗争に巻き込まれた下級武士がキーパーソンになる展開は、著者と同郷の藤沢周平を思わせる。ただ藤沢が、家族のため理不尽な命令に従う昭和のサラリーマンを思わせる武士を描いたのに対し、仕事も趣味(建前は武芸)の釣りも真剣で、時に嫌味やきつい言葉を口にする妻の明江、評判の美人の紗世、釣り好きの息子・丑之助を愛し大切に思う又左衛門は、ワークライフバランスを重視する現代的な働き方をしている。そのため共感する読者も多いのではないか。

 釣り勝負で次の藩主を決めるとなるので、謀略や暗殺も珍しくないお家騒動ものとしては穏当だが、剣で不利を覆そうとする者も出てくる。意外な人物が剣の達人で、短期で勝敗が決まる展開は藤沢の剣豪小説を彷彿させるだけに、藤沢ファンも満足できるはずだ。

 江戸育ちで釣りの経験がない万千代の指南役になった又左衛門は、万千代に学問を教えている弁四郎を目にする。弁四郎は、大泉家中の学問は美徳を推奨する朱子学でも、ひたすら理想を追いかける陽明学でもなく、現実の問題に直面したとき如何に乗り越えるかの知恵を求める徂徠学だという。

 徂徠学の考え方は、自然が相手だけに必勝法がなく、当日の天候、時間、潮の動きなどを読み最適の場所、道具、仕掛けを用意し、さらに現場で臨機応変に動かなければならない釣りとも通底している。大泉家中が徂徠学を学んでいるとの設定は、自分で考えず、他人の意見をSNSなどで拡散する人が増えている現状への批判に思えた。

 やがて跡目争いは決着し、勝った派閥は敵対した派閥の人間を減封などの処分にする。だが負けた派閥にいても、少し早い引退で好きな釣りが存分にできると悲愴感のない人物もいる。この終盤は、組織内の派閥抗争だけでなく、倒産、企業の買収合併などで、いつ減給されたり、退職や転職を迫られたりするか分からない現代日本を生きる読者に、仕事以外の生甲斐や心の支えを持つことの重要性を教えてくれるのである。

さとうけんいち/1968年山形県生まれ。93年『ジャガーになった男』でデビュー。99年『王妃の離婚』で直木賞、2014年『小説フランス革命』で毎日出版文化賞特別賞、20年『ナポレオン』で司馬遼太郎賞、23年『チャンバラ』で中央公論文芸賞を受賞。

すえくによしみ/1968年生まれ。文芸評論家。著書に『時代小説で読む日本史』など。全集やアンソロジーの編著も多く手掛ける。

釣り侍

佐藤 賢一

新潮社

2026年2月18日 発売