リズムを多次元にまたがる凹凸として捉える=センスのゼロ度へ導く

 ともかく『センスの哲学』では、そういった「多次元にまたがる凸凹」という非常に広くて抽象的な意味でリズムを捉えています。そこでまずは物事をすべて、多次元にまたがる凸凹として即物的に捉えることをセンスのゼロ度として設定しています。そこに誘うだけでも十分だと考えたわけです。

 ところが、それは教育的課題としてはなかなか難しいことでもある。というのも多くの場合、どんな作品を見ても、そこに何の意味があるのかという目的や機能性、道具性に引き付けられがちであるからです。人間は利害関心に基づいて物を見るのが通常なわけで、それを即物的に、どういう形で、どういうリズムなのかと引いて見ることは難しい。利害=関心、つまりインタレストで物を見ることがインタレスティング(面白い)ということにつながるわけです。

 このように言葉をつなげていくと、哲学史や現代思想などいろんなことが芋づる式に出てくる。道具的ではない、ただの物、脱意味的な存在というのは、ハイデガーの『存在と時間』で言われています。つまりリズム的次元における物を見ようとしたのがハイデガーの存在論であるという捉え方もできるでしょう。こういった「それ自体」という指向性は、いわゆるモダニズムの一般的特徴であり、初期の抽象芸術は、まさにそれをやろうとしたわけです。また現代音楽においては、それまで短調・長調・和声などによって感情的なドラマトゥルギーを展開させる調性音楽を脱臼させて、すべてをただの配列にしていった。

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ハイデガー『存在と時間』(ちくま学芸文庫)

 自分にとっては、視覚、聴覚、味覚といった区別を超えて、どれもが凸凹という意味では共通だと捉えるような感覚は、子供の頃から自然なものとしてあったと思います。たとえば視覚的な形態が、ある種の音楽のようだと思うことを特殊な感覚であるかのように「共感覚」と言われたりしますが、いわゆるマルチモーダルな経験は基本的に誰にでもあると思っているので、あまりこの言葉には納得していません。ただ、その意識化が難しいのかもしれません。

自分のベースは美術なのか音楽なのか、言語活動なのか?

 自分の経験を振り返って、最も自分のベースにあるのは何かと考えることがあります。美術なのか音楽なのか、はたまた言語活動なのか。そのどれでもあるとも思う。両親は二人とも美術系の学校を出ていて、父親が広告代理店をやっていて印刷の版下なんかを見て育っているので、視覚的配置、アレンジメントの感覚が強いんですね。喋るときの即興性や間の取り方にもそれが関係していて、そういうことが感覚の空間的な操作にもつながっています。

 映像編集なども少しやりますが、別に特別なこととは思ってなくて、たとえば紙の配置で、あるところに凝集した部分があり、あるところは非常にスカスカといったようなバランスと、ある映像の持続をどのようにカットするかは、同じことだと思うわけです。

 今「カット」という言葉を使いましたが、僕の感覚はやはり音楽的なのかもしれません。以前、坂口恭平さんと話していて「千葉さんはやっぱり音楽だし、メロディーだと思う」と指摘されたんですよね。たしかにピアノを弾くことと文章をキーボードで打つことは、まず動作として関連している。一人でパソコンに向かって文章を打ちながら試行錯誤しているときも、小さく声を出していることが多いですし、ただ固定姿勢でやっているわけではなく動いている。皆さんも仕事をしているときに案外そうだと思うんですね。なにか非常に微弱なワーキングソングまたはダンスをおそらくやっている。