『100万回生きたねこ』(佐野洋子/1977年 講談社)は、100万回も生きて死ぬを繰り返す「ねこ」を描く絵本だ。100万人の飼い主が彼を愛し、彼の死を悲しむ。しかし、ねこは泣かない。誰のことも好きじゃなかったから。ある時、野良猫に生まれ変わったねこは、初めて自分を好きになる。そして、白いねこに恋をする。家族をもつ。やがて子らは独立し、白いねこも老いて死ぬ。ねこは泣く。泣いて泣いて、死んでいく。もう二度と生き返ることはなかった――そういうお話。
「繰り返し死ぬ」とか「好きじゃない」とか、およそ子ども向けでないことを書いているが、その通りで、この絵本について語りたがるのはいつも大人だ(子どもは死ぬ話なんか嫌いだ)。
本書では評論家の宮崎哲弥氏が挑んでいる。「ねこはなぜ100万と1回目で死んだのか」というナゾを中心に、仏教的な輪廻や「自己の解放」といった視点から論考がなされる。氏はねこの転生を、〈わけもわからず、まことに理不尽な状況に投げ込まれ、不本意な生き方を強いられ、悲惨な死に甘んじた〉と解釈し、転生をやめたのは、他者を愛し死を悲しみ抜くことで、すべての苦から解放されたからだとしている。
しかし、私の解釈は少し違う。ねこは、あらゆる所有(執着)から逃れんともがく作者自身であると読みたい。「やり直し」をやめたのは、「愛」こそ執着の所以であり、逃れる術のないことに、泣きながら気づいてしまったからではないか。
また、宮崎氏は、〈いかにも絵本や童話のキャラクターっぽい〉王様や船乗りや手品師について、〈リアリティの薄いキャラ〉だから、ねこは彼らを「きらい」で済ませているというが、これも私の解釈とは異なる。ねこは、飼い主が“男”であれば、少なくとも外の世界を見るくらいはできると知っているのだろう。対して、おばあさんと女の子を「だいきらい」なのは、彼女らの生きる世界が圧倒的に狭く閉ざされているから。そう読むのは、少々穿ちすぎだろうか。実際、佐野洋子はエッセイで、良き妻良き母であろうとする自身と作家の自我との間で激しく葛藤した時期があったことを告白している。
さらに、絵本とはテキストばかりの読み物ではない。ラストシーンの“絵”に宮崎氏が重ねたのは禅宗の「十牛図」だが、私が汲み取った意図は……。読み解きには全くキリがない(笑)。
「絵本」とは、たった15、16の見開きに置かれた言葉と絵で読者に問うメディアである。だから面白い。解釈も読み手によって100万通りあっていいのだ。
とは言え、真摯に向き合うことで、いつか「ナゾ」も解けるはず。私もそんな思いで日々、絵本に向き合っている。本書は、正解のないテーマを前に狼狽(うろた)える読者に、いくつかの手がかりをあたえる。ナゾ解きの旅は、ここからが本番だ。
みやざきてつや/1962年生まれ。テレビ、ラジオ、書籍、雑誌などで、政治哲学、仏教思想、生命倫理、犯罪研究、SF批評、サブカルチャー分析を主軸とした評論活動を展開中。著書多数。最新著書は『会話で差がつく大人の上級語彙』。
とうじょうともみ/1973年生まれ。絵本コーディネーター。絵本を社会的視点から読み解くスタイルで、多方面で活動中。
