1982年6月、京急・生麦駅近くにある45坪の倉庫。会社を立ち上げたばかりの男は、角材とベニヤで手作りした事務所で部下にこう発破をかけた。

「世界一になろう」――。

 後に「外食王」と呼ばれる小川賢太郎氏、その人である。

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すき家・小川賢太郎会長(享年77)

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「女っ気はなく、とにかく剛毅」

 4月6日、心筋梗塞で亡くなったゼンショーホールディングスの小川会長。享年77だった。

「昨年6月、次男の洋平氏に社長職を禅譲してからは表舞台に立つ機会が減り、今年1月から療養を続けていた」(経済部記者)

 石川県小松市に生まれた小川氏。「父は航空自衛官で、小松市出身の小川氏の母と出会った」(知人)。

 都内の中学を経て、都立の名門・新宿高校に進学した。高校の同級生が語る。

「女っ気はなく、とにかく剛毅。『腕立て伏せを千回やれば、日本は戦争に負けなかった』が持論でした」

革命戦士の妻と結婚したが…

 東大に進学したが、当時は全共闘運動の真っ只中。小川氏も“革命戦士”となった。友人には「揉み合いになった機動隊員を首投げした」と誇ったが、自衛官の父には敵わなかった。

「当時、木更津の部隊に所属する父から、『お前、「地獄の黙示録」を観たか? 変なマネしたら俺が出撃するぞ。覚悟しとけよ』と脅され、震え上がっていた」(前出・知人)

 妻を見初めたのも学園闘争の場だった。

「奥さんは東大の後輩で、愛知県の裕福な医者の家系。実は彼女も革命戦士で、当時は丸太を抱えて当局側に突っ込んでいた」(同前)

 だが、安田講堂攻防戦で敗北すると、運動に挫折。東大を中退して、港湾労働の会社で働いた。